江戸から明治への変革は方々に痛みを伴いながら進められました。当時の棋界も例外ではありません。武士が世の中から消えたように、あるいは棋士が消えていたとしてもおかしくはなかったのです。
本因坊秀和は幕末期の第一人者であり、御城碁に基づく家元制度の終焉を見届けた人物です。才気あふれる秀和はわずか20歳で頂点に上り詰め一時代を築きますが、晩年は秩序が崩れ去る中で多くの不幸に見舞われました。
彼自身は経済的な困窮の中で失意の死を遂げますが、現在に至るまで碁を生業にする専門棋士はいなくなっていません。方円社を立ち上げ、家元制度に代わる棋士の在り方を示した本因坊秀甫、秀甫と二人三脚で棋界の再興に尽くした中川亀三郎、明治後期に棋士としての矜持を保ち続け、名人中の名人と称えられた本因坊秀栄。秀和が育てた弟子たちは混乱期にあっても決してあきらめることなく、棋道を継承し続けました。
今回の古碁探訪では江戸時代の終焉を見届け、明治に人材を残した哲人、秀和の生涯を寺山怜六段に案内していただきます。
本因坊秀和は幕末期の第一人者であり、御城碁に基づく家元制度の終焉を見届けた人物です。才気あふれる秀和はわずか20歳で頂点に上り詰め一時代を築きますが、晩年は秩序が崩れ去る中で多くの不幸に見舞われました。
彼自身は経済的な困窮の中で失意の死を遂げますが、現在に至るまで碁を生業にする専門棋士はいなくなっていません。方円社を立ち上げ、家元制度に代わる棋士の在り方を示した本因坊秀甫、秀甫と二人三脚で棋界の再興に尽くした中川亀三郎、明治後期に棋士としての矜持を保ち続け、名人中の名人と称えられた本因坊秀栄。秀和が育てた弟子たちは混乱期にあっても決してあきらめることなく、棋道を継承し続けました。
今回の古碁探訪では江戸時代の終焉を見届け、明治に人材を残した哲人、秀和の生涯を寺山怜六段に案内していただきます。
(1)秀和はどんな人物だったのか
- ―― 前回、田尻悠人六段と選んでいただいた「古碁ベスト10」の中に秀和の碁が2局もランクインしていたので、どんな人物なのか気になっていました。
- 寺山 秀和は名人にこそなってはいませんが、名人の実力がありながら名人にならなかった(なれなかった)4人の人物、囲碁四哲(いごしてつ)に数えられる名棋士です。本因坊丈和、井上幻庵因碩時代の終わり頃から台頭し、丈和亡き後は本因坊秀策の師となって一時代を築きました。江戸時代の最も碁が盛んで層が厚かった黄金時代を象徴する人物と言えるでしょう。
- ―― 黄金時代にトップに立っていたということは、歴史的に見ても相当な打ち手だったのですね。
- 寺山 実力はしばしば史上最強の候補にあがる丈和や秀策とそん色ありません。ただ、秀和はとても早打ちだったんです。誰とでも打ち、様々な布石を試し、棋譜も膨大に残っている。素晴らしい才能の持ち主だったことは疑いようがありませんが、秀策の方が時間をかけて完成度の高い碁を打ったので、最強云々という時には評価されやすかったのかもしれません。
- ―― なるほど。
- 寺山 秀和は1820年に伊豆で生まれたと言われています。名を土屋俊平と言い、平民ながら比較的裕福な家庭で育ったようです。5、6歳の俊平少年は時々近所のおじさんと碁を打っていたそうですが、おじさんの長考に待っていられず、打つとどこかへ遊びに行き、石音が聞こえると戻ってくるのを繰り返していたそうです。そんなある日、なかなか勝てないおじさんが俊平少年の見ていない隙に盤上の石をずらして自分の都合の良い配石に変えるズルをしました。しかし俊平は戻ってくるなりそれに気づき、盤面を元通りに復元したそうです。
- ―― それは、おじさんも真っ青ですね(笑)。
- 寺山 子どもに碁の才能があると気付いた父親は俊平が9、10歳の時に本格的に江戸で碁の修行をさせようと決心をします。俊平が専門棋士を目指すことについては親戚の反対などすったもんだがあったそうですが、それでも熱心な父に後押しされ、最終的には本因坊家に弟子入りすることができました。
- ―― 昔は父親にすべての権限があるようなイメージでしたが、苦労したんですね。
- 寺山 俊平の父は入り婿で立場が弱かったようですね。俊平は秀和となり、12歳で初段となりますが、父はすでにその時亡くなっていて晴れ姿を見せることはできませんでした。
- ―― 残念ですね。
- 寺山 そうですね。ただ、その後の秀和の成長ぶりは凄まじいものがありました。毎年昇段していき、16歳で五段。その3年後、19歳で六段に昇段した時にはすでにトップ棋士と並ぶ実力を備えていたと言います。
- ―― 異常なスピードですね。
- 寺山 歴史上「初めから碁が分かっているような天才」は何人かいますが、秀和もその類だったのでしょう。さて、そうこうしている間に大事件が発生します。碁所就任にまつわる裏工作がバレて、丈和が名人引退に追い込まれたのです。当時は丈和が当主で跡目に丈策が据えられていたのですが、幻庵が名人を目指すとなると争い碁の相手をできるのは跡目以上です。本因坊家としてはすでに丈策をしのぐ実力だった秀和に幻庵の相手をさせた方が勝てそうだということで、丈和は家督を丈策に譲り、丈策は跡目を20歳で七段の秀和に定めました。かくして秀和は幻庵との争い碁という大舞台に挑むことになったのです。
- ―― 大変な重荷ですね。
- 寺山 名人位をかけた争い碁ともなると自分だけではなく家の命運も背負う大役です。20歳の若者には荷が重すぎるかと思われましたが、結果は秀和の4連勝。幻庵の野望を完全に打ち砕き、本因坊家の威信を守りました。
- ―― すごい!
- 寺山 幻庵を退けたことで名実共にトップ棋士となった秀和は丈策が亡くなると本因坊家の当主となり、第一人者としての地位を確かなものにします。当然、名人を目指すに十分な実力と実績がありますが、最後までその地位に就くことはありませんでした。理由は様々ですが、特に大きかったのは幻庵に対する引け目でしょうね。
- ―― どういうことでしょうか。
- 寺山 幻庵は丈和に嵌められて名人になれなかった人物です。師と確執のある長老が存命のうちに名人を目指すのははばかられたのでしょう。結局、名人位を願い出たのは幻庵がなくなった翌年、40歳の時でした。それは秀和の配慮の形だったと思うのですが、それでも当時の井上家当主に「先代が亡くなってすぐに願い出るのはどうなのか」と反対されてしまいます。さらに、御城碁で秀和からしたら負けようのない人物に痛恨の1目負けを喫し、ケチが付いてしまいました。そうこうしているうちにペリーが来航し、幕末の動乱で名人どころではなくなってしまったのです。
- ―― 不運が重なったのですね。
- 寺山 秀和の前半生は順風満帆でしたが、後半生になると一気に不幸が押し寄せてきます。名人への望みを絶たれたちょうどその頃、秀策がコレラで世を去りました。10歳ほど年下の秀策とは師弟関係でもあり、若かりし頃は共に勉強した兄弟弟子でもありました。秀策を失った秀和の悲しみは深かったようです。秀策の実家に宛てた手紙には棋界の宝を失った悲痛な気持ちが切々とつづられています。
- ―― 秀策の存在は秀和にとっても大きかったのですね。ところで、秀策が亡くなったということは、跡目がいなくなったということになるのでしょうか。
- 寺山 その通りです。そしてそれがさらなる不幸の呼び水となりました。秀和は秀甫を大変かわいがっており、実力を考えれば当然秀甫を跡目に据えるべきでした。ところが、丈和夫人の横やりを受けて息子の秀悦を跡目に据えてしまったのです。
- ―― 以前、秀甫の回で「これが秀甫、秀悦双方にとっての不幸だった」とおっしゃっていましたね。
- 寺山 秀和にとって秀甫は最高傑作と言っていいでしょう。秀策との師弟関係は途中から引き継いだにすぎませんが、秀甫は最初から手塩にかけて育てました。秀和はしょっちゅう有力者に請われて地方に遠征していたのですが、その際は必ず秀甫を連れて行き、道中で碁の検討をしたり、秀甫を有力者につないだりしていました。秀和は軽快かつ穏やかな人柄で、指導碁が天才的に上手かったそうですが、そういう如才ない部分も秀甫に受け継がれていたと思います。だからこそ、跡目に秀悦を置いてしまったのが残念でなりません。
- ―― いくら師匠の奥様に言われたとしても、本因坊家の当主として突っぱねて欲しかったですね。
- 寺山 1867年、大政奉還によって明治政府に権限が移行すると本因坊家は苦境に陥りました。最初の数年は温情によって多少の給金が支給されていたようですが、その後は一切の収入が途絶え、秀和は本因坊家の敷地で借家をすることで生活費を得ようとします。ところが、不幸なことに火事に遭い、本因坊家の敷地一帯が焼けてしまいました。財産をすべて失った秀和は唯一焼け残った物置で生活をしたと伝えられています。
- ―― 悲惨ですね。誰か助けてくれる人はいなかったのですか。
- 寺山 誰しもそう思いました。「あなたほどの人なら頼めば資金提供してくれる人もいるでしょう」と勧められたことも一度や二度ではないはずです。しかし、秀和は「今、みんなが苦しんでいるこの時に、自分だけ楽な生活などすることはできない」と特別扱いを頑なに拒みました。
- ―― 高潔な人だったのですね。
- 寺山 秀和は明治6年に53歳で亡くなりました。秀和自身の晩年は悲惨なものでしたが、後世に希望を残したのも間違いなく秀和でした。特に、幕末の混乱で御城碁が行われなくなり、棋士が対局を披露する場を失った時に、「三の日会」という研究会を開いた功績は大きいです。当時の棋士が研鑽を積む貴重な機会を提供しただけでなく、バラバラになりそうだった棋士を繋ぎとめる役割も担っていたと思います。秀甫を含め、この場に参加していた棋士たちの中から、やがて方円社立ち上げという新しい機運が高まっていくのです。
(2)秀和はどんな棋風だったのか
- ―― 秀和は早打ちで初めから碁が分かっているようなタイプとのことでしたが、実際にはどんな棋風だったのでしょうか。
- 寺山 軽やかでセンス抜群、苦労なく勝っているように見える棋風です。私が一番現代の棋士で似ていると思うのは石田芳夫九段ですね。
- ―― 石田九段ですか。
- 寺山 棋風というより、タイプが似ていると言った方がいいかもしれません。秀和も石田先生もトップに立つまでがものすごく早かった。そして、早打ちでセンス抜群。後半の正確さも頑張ってヨンでいるというより、はじめから分かっているような小気味よさがあります。
- ―― たしかに、石田九段は人柄も軽快で如才ないイメージがあります。そういう意味でも秀和に重なりますか?
- 寺山 先ほど秀和は天才的に指導碁が上手かったと言いましたが、こんなエピソードがあります。ある日、蕎麦屋の主人に指導碁をしていた秀和が珍しく悩んでいる。終局して「この碁は苦労したよ」という秀和に促されて主人が盤面をみると、屋号の「そばまさ」が盤上に描いてあった。奇想天外で私が好きな話の一つです。
- ―― 技術の高さもさることながら、茶目っ気にも驚きますね。
- 寺山 もう一つ、秀和の特徴は星打ちなど、新しい布石も積極的に試した点にあるでしょう。江戸時代とは思えないような現代的な感性を発揮している棋譜も数多く残っていることから、時に「現代碁の父」と呼ばれることもあります。
(3)秀和の代表局
- ―― 秀和の代表局を教えてください。
- 寺山 もちろん、幻庵との争い碁になるでしょうね。この時の秀和の強さは目を見張るものがあります。特に争い碁の第1局となった本局は秀和の技術の高さが余すところなく発揮されているのではないでしょうか。
- ―― 古碁ベスト10にも入っていた一局ですね。
- 寺山 幻庵にとっては一世一代の大勝負ですし、秀和にとっても家の威信をかけた大一番。名人をかけた争い碁は当時の棋界における華と言えるでしょう。江戸時代のラストを飾る両者の争い碁はどの碁も見応えたっぷりなので、ぜひ並べてみて欲しいと思います。
天保11年(1840年)11月29―12月13日 稲葉丹後守邸にて
黒・本因坊秀和 白・井上幻庵因碩 (黒101手まで以下略 黒4目勝ち)

記・品田渓
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