寺山怜の古碁探訪(14)―安井仙角仙知~新布石のもとになった元祖「宇宙流」

 本因坊道策以来、約250年変わらなかった碁の常識を覆す革命をもたらした呉清源木谷實の「新布石」、その着想の元になった人物がいることをご存じでしょうか。
 安井仙角仙知は「隅」と「辺」を重視する低位の構えが圧倒的に主流だった時代に「中央」の価値を発見した人物です。目数では計りづらい「厚み」や「模様」の効果に気付いた仙知はその考え方を洗練させていき、第一人者にまで上り詰めます。
 仙角仙知の棋風は多くの棋士に影響を与え、時代が進むにつれて少しずつ中央への理解も深まっていきました。「新布石」は仙角仙知が蒔いた種が多くの人によって育てられた先に起こったビッグバンだったとも言えるでしょう。今回の古碁探訪ではそんな仙角仙知の生き様を寺山怜六段に案内していただきます。
(1) 安井仙角仙知とはどのような人物だったのか
  • ―― 安井仙角仙知はたしか、古碁探訪(10)で取り上げた安井知得仙知の師匠でしたね。
  • 寺山 その通りです。1764年生まれ。本因坊察元によって冬の時代が終わり、少しずつ活気が戻ってきた頃に台頭した人物です。元祖「宇宙流」とも言える人物で、大変な実力者でした。さっそく紹介していきたいところなのですが、その前に、いったん名前について整理しておきたいと思います。というのも、安井家の歴代当主には似た名前や同じ名前の人物が多く、混同しやすいからです。
  • ―― お願いします。
  • 寺山 今回取り上げる仙角仙知の「仙角」は隠居後に名乗った名前で、現役時代は七世安井仙知でした。そして後を継いだ知得は八世安井仙知。安井仙知が2人いることから区別して、七世仙知を大仙知または隠居後の号も含めて仙角仙知と呼ぶようになりました。
  • ―― 八世安井仙知は単に「知得」と呼ぶことが多いですよね。なぜ七世仙角仙知は「仙角」とは呼ばないんですか。
  • 寺山 それは、知得は1人しかいないけれど、仙角は他にもいるからです。そして物語はまさに仙角から始まります。五世安井春哲仙角には跡目には据えられなかったけれど、有力な弟子がいました。それが坂口仙徳、仙角仙知の父親です。
  • ―― 坂口仙徳はたしか天保四傑の一人ではなかったですか。
  • 寺山 漢字が違います。天保四傑は仙得です。ただ、音にした時に同じになるので、区別のため、仙徳を親仙徳と呼ぶこともあります。
  • ―― 安井家関連の名前は本当にややこしいですね(笑)。
  • 寺山 まあ、すぐに慣れますよ(笑)。さて、師匠の春哲仙角はある決断をしました。坂口家を安井家の外家とし、六段だった仙徳を推挙して御城碁に出仕させたのです。安井家を継がせることはできなかったものの仙徳を手放すのが惜しかったのでしょうね。
  • ―― 外家とは何でしょうか。
  • 寺山 分家のようなものです。1700年代後期は各家が相次いで外家を設けた時期でした。例えば井上家における服部家。こちらも同時期、服部因淑によって興されています。外家の役割としては、政治的な仲間作りの意味もあったでしょうし、本家の人材が枯渇した時のための保険の意味もあったでしょう。実際に安井家はすぐに坂口家に頼らざるを得ない状況に陥ります。春哲仙角を継いだ六世安井仙哲が後進を育てる間もなく、若くして亡くなってしまい、仙徳の息子、当時17歳で二段だった仙角仙知が安井家を継ぐことになったのです。
  • ―― ずいぶん若い当主ですね。
  • 寺山 跡目もしくは当主になると段位に関わらず御城碁に出仕できます。仙角仙知は父、仙徳と共に初出仕し、林門入との二子局に快勝します。そして、これは周囲に鮮烈な印象を与えました。
  • ―― なぜですか。
  • 寺山 父、仙徳は当時としてはかなり珍しい、中央志向の碁で知られていました。もちろん、中央志向といっても現代に思い浮かべるようなものではありません。部分的に中央志向といいますか、発想に常識が邪魔をして上手くいっていない部分も多々あるのですが、それでも「華々しい面白い碁を打つ」と一目置かれていました。そして、その息子である仙角仙知は父親に輪をかけて中央志向で華のある碁でした。息子の才能をお披露目できて、仙徳は鼻が高かったでしょうし、安心もしたことでしょう。仙徳は息子の初出仕で親子そろって対局を披露したのち、2年後に亡くなります。
  • ―― 中央志向はお父さん譲りだったんですね。
  • 寺山 影響は大きかったでしょうね。仙徳はかなりの実力者で、御城碁の成績は10勝5敗(11勝5敗の説もあり)。最終段位は六段でしたが、七段上手に匹敵する実力は十分にありました。しかし息子はそれどころではない天才で、そのうちに同時代で敵う人は誰もいないほどに成長しました。
  • ―― ということは、名人になったのでしょうか。
  • 寺山 それがなっていないのです。本当になぜこの人が名人でないのかと思います。当時のトップ棋士というと14歳年上の本因坊烈元がいますが、仙角仙知はすぐに烈元に追いつき、段位が並んでからはほとんど負けていないんです。中央への理解も格段に深まり、棋風も「珍しい」「面白い」をとうに通り越して、一つの芸にまで昇華していました。
  • ―― なぜ名人になれなかったのでしょう。
  • 寺山 悪い噂はなく、人柄に問題があったとは思えませんし、実力的にも申し分なかった。なので、名人を本気で望めばなれたのではないかと思います。それでもならなかったのは本人があまり欲の深い方ではなかったというのと、弟子に知得がいたというのが大きいでしょうね。
  • ―― どういうことでしょうか。
  • 寺山 もし仙角仙知が名人を目指して争碁をするとしたら、烈元ではなく跡目の元丈が出てきます。元丈と打つとなると手合割は向先(相手の黒番)になる。元丈も名人級の器ですから、いくら仙角仙知といえど骨の折れる相手です。そう考えた時に、「無理しなくてもいいか」と思ったのかもしれません。「幸い自分にも元丈と互角に戦える知得がいる。後は知得に任せよう」と。
  • ―― 知得は仙角仙知とは真逆の棋風ですよね。それでもそこまで知得を信頼し、評価していたなんて素敵ですね。
  • 寺山 師匠としても優秀だったのだと思います。亡くなったのは74歳と当時としては長寿ですが、引退は早く、48歳の時に当主の座を知得に譲っています。退いてからは主に後進の指導にあたり、それもあってか、安井家には優秀な人材が集まりました。
  • ―― 天保四傑のうち3人は安井家でしたね。
  • 寺山 3人とも多かれ少なかれ指導してもらっていたでしょうね。特に阪口仙得は特別でした。坂口家は弟の仙寿が継いでいたのですが、わずか30歳で亡くなり家が途絶えた状態でした。そこで仙角仙知は、坂口家を再興するため、当時10歳(14歳の説もあり)だった仙得を育て、家名を「阪口」に改めて継がせます。一説には仙得は自分の息子だったとも、弟の忘れ形見だったとも言われていますが、確かなことは分かりません。
  • ―― 出身である坂口家を大切にしていたのですね。
  • 寺山 井上幻庵因碩も服部家出身で、井上家を継いだ後も服部家が途絶えないように尽力しました。やはり出身の家というのは特別なのかもしれませんね。幕末近くなると外家どころか家元四家ですら身分が危うくなり、その中で坂口家に限らず、何代も続くような外家という考え方は消えてしまいました。外家の仕組みが機能していたのは100年程度の短い間でしたが、その間に仙角仙知や幻庵因碩といった名棋士を輩出した功績は大きいと思います。

(2)仙角仙知の棋風はどのようなものだったのか
  • 寺山 仙角仙知の棋風を語る上で欠かせないのが、木谷實が呉清源と共に「新布石」を考案した際に参考にしたということです。木谷は新布石の後は実利重視のカラい棋風で鳴らしていたので、雑誌の記者が「先生はやっぱり知得がお好きなんですか」と聞いたそうです。すると「知得は嫌いじゃないが、一番好きなのは仙角仙知だ」と答えた。真逆の棋風ですが、ある意味だからこそ、惹きつけられるものがあったのかもしれません。
  • ―― 「父の仙徳は発想に常識が邪魔をして上手くいっていない部分も多々あった」とおっしゃっていましたが、仙角仙知はそのあたりを克服したのですか。
  • 寺山 格段に洗練されていると思います。とはいえ、当時らしさは残っています。例えば、辺にヒラく時はほぼ3線です。4線にヒラく感覚は新布石以降のものなのでしょう。その代わりに高目や目外しを多用したり、相手の石に上から圧力をかけたりすることで、位を高く保っています。
  • ―― まさに模様の碁を開拓した人物なんですね。
  • 寺山 仙角仙知によって棋風のバリエーションは格段に広がったと思います。
  • ―― 現代の棋士で似ている棋風の方はいますか。
  • 寺山 王銘琬九段が比較的近いでしょうか。大模様を張って相手の石を取るというよりも、厚みを実利化するのが上手なタイプです。

(3)仙角仙知の代表局
  • ―― 仙角仙知の代表局を教えてください。
  • 寺山 迷いましたが弟子の知得との一局にしました(第1図)。対照的な棋風でしかも両者一歩も譲らないので、二人の碁はどれも見ごたえたっぷりです。
  • ―― 仙角仙知の棋風はむしろ知得のライバル、元丈が受け継いだと聞きました。
  • 寺山 そうですね。元丈は棋風だけでなく、早々に隠居して丈和に後を任せるなど、仙角仙知と重なる部分が多いです。他家ではありますが、仙角仙知を尊敬していたのでしょう。もう一局、父の坂口仙徳の棋譜も紹介したいと思います。この碁はまさに宇宙流。本因坊烈元相手に堂々と中央を囲って勝った名局です。
  • ―― 真ん中にぽっかりと大きな地ができていますね。
  • 寺山 こうしてみると、仙角仙知の宇宙流は父、仙徳あってのものだと分かります。仙角仙知の実力が突き抜けているので仙徳が注目されることは少ないですが、中央の開拓は親子二代で進めたことを知っていただければなと思います。

記・品田渓

【第1図】
寛政8年(1796年)2月29日 上野御隠殿
黒・中野知得 白・安井仙知 132手まで以下略 ジゴ


【第2図】
明和8年(1771年)10月27日 田沼能登守殿
黒・坂口仙徳 白・本因坊烈元 99手まで以下略 黒中押し勝ち


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