寺山怜の古碁探訪(3)―本因坊丈和~成り上がった「最強」の名人~

 どんな歴史小説でも、策略や陰謀は最高のスパイスです。志の高い人格者が道を邁進する姿は美しいですが、ドラマとしては人間らしい欲に突き動かされるくせ者がいた方が面白いというもの。そして、囲碁史における最強のくせ者といえばこの人、本因坊丈和でしょう。
 ミステリアスな過去に頑強な肉体、何者をもふっとばしてしまう剛腕、数々の策謀。江戸の囲碁文化が最高潮に達した天保時代に丈和は持てる力をすべて使って最高権力「碁所」の地位を手に入れました。囲碁の歴史を紐解く「寺山怜の古碁探訪」第3回目は人間味あふれる丈和の魅力に迫ります。

(1) 丈和はどんな人物だったのか
  • ―― 丈和は天保時代の名人で碁所。非常に強かったので道策を「前聖」として、丈和を「後聖」という、と聞いたことがあります。
  • 寺山 その通りです。ただし、丈和はあらゆる点で道策とは真逆の人物でした。
  • ―― どういうことでしょうか。
  • 寺山 まずは生まれです。道策は良家の子息でしたが、丈和はおそらく非常に貧しく身分も低かっただろうと思われます。
  • ―― 「おそらく」というのは・・・。
  • 寺山 本当のところ、丈和がどこの誰なのか、文献に残っていないので分からないのです。分かっているのは、丈和が決して自分の過去を人に話さなかったということ、そして本因坊家の跡目を継ぐ時に幕府に届け出た書類が嘘八百であったことくらいです。
  • ―― 嘘八百はすごいですね。
  • 寺山 父親の名前、出身はさることながら、年齢まで7歳ほどサバをよんでいたのですから、なかなか徹底した偽り具合です。
  • ―― 当時は良家の子息が棋士になることが多かったのですか?
  • 寺山 そんなことはありません。例えば、安井知得仙知という高名な棋士は漁師の息子でしたし、そのことが出世の足枷になったという事実もありません。だからこそ、丈和の過去の隠し方が異常に映るわけです。
  • ―― いろいろ想像してしまいますね。
  • 寺山 研究によって今では出身地は伊豆ではないかと言われていますが、詳しいことは分かっていません。そして、そんな過去が影響してかは分かりませんが、丈和は人一倍権力欲の強い人物でした。丈和は最終的に碁界における最高位、碁所の地位に上り詰めますが、そのやり方は決して褒められたものではありません。ライバルを盤外で嵌め、有力者の推薦をもらうために買収行為を働き、多くの反感を買いました。
  • ―― 人格者で周囲から請われて碁所に就任した道策とは全然違いますね。
  • 寺山 そうですね。ただ、だからこそ丈和は魅力的だとも言えます。丈和には膨大なエピソードが残っていて、その数は道策の比ではありません。「無頼」で有名な昭和の名棋士、藤沢秀行名誉棋聖がそうであるように、できた人格者よりもくせがある人物の方が、周りが語りたがってエピソードが豊富になっていくという面があると思います。
  • ―― 寺山六段は丈和の人間的な魅力はどんなところにあると思いますか?
  • 寺山 並外れた生命力ですね。丈和はものすごく晩成だったんです。19歳でまだ初段、まったくの無名でした。本因坊家でも期待されておらず、跡目になったのも優秀な兄弟子、智策が早逝してしまったから。今も昔もトップ棋士になるような人物の多くは早熟です。秀策や道策がそうですし、丈和の時代においても11歳年下の井上幻庵因碩の方がよほど才気に溢れているように見えました。
  • ―― そんな丈和がなぜ碁所になれたのですか?
  • 寺山 それが面白いところです。いわゆる天才からはほど遠いスタートでしたが、丈和は少しずつ、しかし着実に実力を付けていき、しかもその成長が年を重ねても止まることがありませんでした。最初は期待もされていない無名の棋士だったにもかかわらず、10年、20年と月日が経つごとに名声は高まり、40歳でついに名人をうかがえるほどの実力になったのです。
  • ―― それは周囲の人も驚いたでしょうね。
  • 寺山 江戸時代は現代ほど棋士の低年齢化が進んでいないとはいえ、丈和の成長曲線は当時としても異常です。あえて言うなら不気味ですらあったと思います。もう一つ、丈和が碁所の地位になれた大きな要因はシンプルな体の強さです。
  • ―― 腕力で周りを捩じ伏せていたということですか?
  • 寺山 いえいえ、さすがに棋士ですから、喧嘩で腕力を使うことはしませんよ(笑)。ただ、当時の対局は現代では想像もできないくらいに体力が必要で、丈和は稀に見る頑強な肉体を持っていました。ですから、いくら才能があっても、ひ弱な体では簡単に丈和に吹き飛ばされてしまったのです。
  • ―― 今でも対局は体力勝負で、特に二日制のタイトル戦では一局終わると数キロ体重が減ると言われますが、江戸時代の対局はそれよりも過酷だったのですか?
  • 寺山 そうですね。まず押さえておきたいのは時間制限という概念がないことです。では、どうしていたのかというと、好きなだけ考えていたのです。自然と真剣勝負では対局時間が長くなり、数日かけて一局を打つということも普通にありました。
  • ―― 数日かけて一局・・・。想像もできません。対局中ずっと座っていることはできないですよね?途中で中断して休憩はしないのですか?
  • 寺山 途中中断、いわゆる「打ちかけ」にすることはできました。ただし、それを提案できるのは上手のみ。本当のところどのように対局していたのかは分かりませんが、徹夜もしばしばあったようです。丈和の兄弟子、智策を含め、多くの優秀な若手が早逝していることから考えても、当時の対局は時に命を削られるほど過酷だったと思われます。
  • ―― それは確かに体が丈夫でないと持ちませんね。
  • 寺山 丈和が碁所を目指していた時、それを阻止する可能性のある人物が二人いました。一人は安井知得仙知、もう一人が井上幻庵因碩です。しかし知得は丈和より年上で、丈和と「争碁(あらそいご・昇段や碁所就任などをかけて行う対局のこと)」をしたら命が持たないと思い、なかなか打とうとしませんでした。幻庵は最初は「争碁」をするつもりがあったかもしれません。しかし丈和に「自分が碁所になったらそのうち後を譲る」と持ちかけられ、一転して丈和の碁所就任を支持するようになります。この約束は反故にされ、幻庵は碁所になれないのですが、そもそも勝つ自信があればこんな口約束にかける必要はなかったわけです。丈和の口車に乗ってしまったのは幻庵もまた、丈和に勝つのは大変だと思っていたからでしょう。年齢を考えれば11歳年下の幻庵の方が圧倒的に有利。それでもなお丈和と争碁を避けたいと思ったのは、それだけ丈和が元気で丈夫で充実していたからに他なりません。
  • ―― 知得も幻庵も体力勝負で丈和に敵わないと思ったということですね。
  • 寺山 「争碁」というのは囲碁における決闘のようなものです。黒番有利は周知の事実ですので、決着をつけるためには何局も対局し、誰の目から見ても明らかに勝敗が偏るところまで打たなければなりません。実力が拮抗した者同士であれば容易に決着はつかず、長引くことは目に見えています。二人とも優れた棋士ですから「芸」では引けを取らない自負があったでしょう。しかし、丈和と「争碁」をするとなれば勝敗以前に命が危ない。頑強な肉体と無限の体力を前に怯んでしまったとしてもおかしくはありません。
  • ―― 棋士として以前に、生き物として強かったのですね。寺山六段が丈和の魅力を「生命力」とおっしゃっていた意味がよく分かりました。

(2) 丈和の棋風
  • ―― 丈和の棋風はどのようなものだったのでしょうか。
  • 寺山 一言でいうなら「戦さ上手」です。ヨミの力が強い剛腕な一面がある一方で、単なる力任せとは一線を画す戦略性がありました。戦いの持っていき方や仕掛けるタイミングが絶妙で、天性の勝負センスを感じます。
  • ―― お話を聞く限り、丈和という人そのもののような棋風ですね。
  • 寺山 そうかもしれません。丈和は賭け事も大好きだったそうです。本業の囲碁はもちろんのこと、生き方も含めて、勝負への嗅覚が優れていたのでしょうね。

(3) 吐血の局
  • ―― そんな戦さ上手な丈和の代表局を教えてください。
  • 寺山 「吐血の局」でしょう。この碁で打たれた「丈和の三妙手」があまりにも有名です。
  • ―― 吐血・・・、名前が穏やかではありませんね。
  • 寺山 対局直後に吐血して倒れ、数ヶ月のちに亡くなってしまったことからこの名前が付きました。といっても、倒れたのはもちろん丈和ではありません。対戦相手の赤星因徹の方です。この碁が有名なのは打たれた背景に陰謀があることと、その陰謀に巻き込まれる形で若くして因徹が亡くなってしまったという悲劇性にあります。
  • ―― 陰謀・・・、ますます穏やかではありませんね。
  • 寺山 陰謀を仕掛けたのは丈和に嵌められて碁所就任を逃した幻庵で、本局は碁所の丈和に若手の因徹が挑むという形で行われました。ここで押さえておきたいのは碁所が公の場で対局をすること自体が、この当時は非常に珍しいということです。
  • ―― なぜですか?
  • 寺山 碁所になると「御止碁(おとめご)」と言って、対局を受けなくても良いという慣例があったからです。碁所になる者はその時代に最も強い、名人でなければならないという名目がありますから、対局を受けて負けようものなら周囲から「名人の資格がない」と糾弾されかねません。けれどいくら就任時に一番であっても、誰でも年はとりますし、ずっと誰にも負けないというのは無理がある。そういう事情もあり、いつからか碁所は対局をしなくても良いことになったのです。
  • ―― それでも丈和は因徹と対局をしたのですね。
  • 寺山 だからこその陰謀なのです。因徹は幻庵の弟子で当時七段。直近の練習碁では幻庵に勝っており、実力は確かなものでした。そこで幻庵は一計を案じます。松平家のお偉方を巻き込んで囲碁の会を催し、丈和が断れない状況で因徹と打たせたのです。九段の名人は七段に勝って当たり前、もし負ければ「七段に負けるようでは名人の資格はない」と幕府に訴え出ることができます。
  • ―― 幻庵は丈和に嵌められたので、今度は弟子を使って嵌め返そうとしたのですね。
  • 寺山 そういうことです。丈和はこの時50歳近くで、しかも碁所就任から数年間、表舞台で対局していません。普通に考えれば実力は相当落ちていそうなものです。
  • ―― 幻庵には勝算があったということでしょうか。
  • 寺山 そう思います。ところが、丈和はすごく強かった。囲碁の実力もさることながら、体力も衰えていませんでした。対局は4日間にわたって行われ、その間に丈和は3つの妙手を放ち劣勢をはね返し、幻庵の思惑に反して堂々たる勝利を収めました。悲惨だったのは因徹の方です。師匠の代理という重責を負って戦わされ、勝たなければならないプレッシャーから体調が悪くても棄権することさえできず、持病を悪化させ、対局が終わったと同時に吐血して倒れてしまいました。そして、その数ヶ月後に本当に亡くなってしまいます。
  • ―― 壮絶な最後ですね。因徹があまりにも不憫ですが、同時に丈和の底知れない強さが恐ろしく感じます。
  • 寺山 当時の幻庵や見ていた他の人たちも同じ気持ちだったと思いますよ。
  • ―― この対局に勝ったということは丈和はずっと碁所のままだったのでしょうか。
  • 寺山 いいえ、結局他のところから悪事がバレて碁所はおろされてしまいます。
  • ―― たくさん悪いことをしていたんですね・・・。
  • 寺山 まあ、そうですね(笑)。丈和の人気は碁所就任をめぐる一連の醜聞から著しく低下しました。そして丈和の晩年の弟子、秀策の人気が高まるにつれて「前聖」道策の後は秀策でしょうというムードが広がり、「後聖」の称号は秀策にとって変わられた時期もありました。けれど、そういった諸々を差し引いても、丈和は史上最強を道策、秀策と争うことができるくらいに強かったし、人間的な魅力に溢れた名棋士だったと思います。

天保6年 吐血の局(1―80、81以下略、白中押し勝ち)
黒・赤星因徹七段 白・本因坊丈和九段

白68、白70、白80がいずれも妙手。合わせて「丈和の三妙手」と呼ばれる。
記・品田渓