寺山怜の古碁探訪(2)―本因坊道策~突如現れた大天才~

 囲碁の歴史を紐解く「寺山怜の古碁探訪」第2回目は本因坊道策を取り上げます。道策といえば「碁聖」「碁神」ともいわれる伝説的な棋士。しばしば秀策に並んで史上最強の棋士として名前が挙がる人物ですが、寺山六段は「道策は本物の大天才。その功績は『強かった』では片付けられない」と言います。いったいどういうことでしょうか。

(1)道策はどんな人物だったのか
  • ―― 道策も史上最強の棋士に名前が挙がり、「碁聖」「碁神」などとも評されます。
  • 寺山 道策は当時の一流棋士をことごとく先以下に打ち込んでいて、向かうところ敵無しでした。そしてその衝撃は現代においてAIが出てきた時と同じくらいあったと思います。
  • ―― どういうことでしょうか。
  • 寺山 道策が生まれたのは1645年、江戸初期でした。江戸時代になって家元制度が確立され、専門棋士が生まれたわけですが、当時はまだ研究が進んでおらず、体系だった囲碁の考え方のようなものはありませんでした。強い人はただなんとなく強い、ただなんとなく勝っている、という状態だったのです。ところが道策はそんな時代において「石の方向」や「石の効率」といった概念を誰に教えられるわけでもなく独自に思いつき、それを実践しました。ほとんどの人がぼんやりとしか分かっていないようなことを道策1人がクリアに見えている。同時代の棋士にとっては地球外生物がやってきたくらいのインパクトがあったでしょう。
  • ―― 突如現れた大天才だったのですね。
  • 寺山 そう思います。囲碁史の中で囲碁の考え方を根本から変えるような革命は道策と呉清源木谷實による新布石、AI以外にはありません。実際に、道策以前の棋譜と道策以後の棋譜を見るとその差が歴然としています。
  • ―― それほどの大天才なら、きっと変わった方だったのでしょうね。
  • 寺山 それがそうではないのです。道策は良家の出身で教養があり、温厚でバランス感覚に優れた人格者だったと伝えられています。破天荒だったというようなエピソードは全く残っていません。
  • ―― 才能豊かでしかもできた人物だったのですね。
  • 寺山 そうですね。それは道策が順調に出世できたことにも表れていると思います。この時代、碁界の頂点は家元四家を統括する「碁所(ごどころ)」という地位で、基本的に最も強い人、つまり名人の中から選ぶ決まりでした。ただ、これがとにかくなるのが大変な地位なのです。
  • ―― どういうことでしょうか。
  • 寺山 基本的に皆それぞれの家の誇りをかけて戦っているので、誰かが碁所になろうとすればどこからか異議申し立てがあるのが普通。適任者がいなければ空位になることもあり、その場合は四家による合議でいろいろなことが決定されるので、その方が都合のいい人もいる。例えば道策の師匠、道悦は時の碁所、安井算知を引きずり下ろすために奉行所に訴え出て流罪覚悟で算知に挑む、ということをしています。ところが道策の碁所就任については誰も意義を申し立てず、満場一致で決まりました。それは道策がいかに突出して強かったかを示すものであると同時に、政治的なバランス感覚を持った人物であったことを示しています。
  • ―― 碁所は本当の「頂点」なのですね。
  • 寺山 その通りです。碁所は実力が一番であることを示すとともに実質的な権限をすべて握る政治的な頂点でもある。実際に処遇もかなり良かったようです。そして何よりも家の名誉にかけて是が非でもなりたい役職だった。江戸時代の碁を楽しむ上で碁所になることの重みを理解しておくと役に立ちます。
  • ―― ところで、道策の師、道悦と算知の戦いはどうなったのですか?
  • 寺山 最初は算知が押していましたが途中から道悦が巻き返し、算知は結局碁所を下りることになりました。ちなみに、道悦が途中から巻き返せたのは道策が師匠に布石の打ち方をアドバイスしたからだといわれています。道悦は算知を引きずり下ろしたあと自分が碁所になろうとはせず、しばらく空位とし、のちに道策を碁所に推薦しました。
  • ―― 道悦は道策の才能をだれよりも分かっていたのですね。
  • 寺山 そうですね。道策は満場一致で碁所に就任すると完璧な仕事をしました。四家のバランスを上手く取り、揉め事を起こすことなく場をおさめ、時に幕府の要請で琉球国と囲碁による外交を行うなど、単なる碁打ちを超えた働きもしたと伝えられています。
  • ―― 話を聞けば聞くほどすごい人ですね。
  • 寺山 道策は才能、人望、実力、地位と全部を手にした人でした。しかし唯一恵まれなかったことがあります。それが後継者です。
  • ―― あまり強い弟子がいなかったのですか?
  • 寺山 そうではありません。むしろ道策の周りには才能ある若者が次々と集まってきました。弟子の1人、小川道的などは道策に匹敵する才能と実力を持っていたといわれています。しかし非常に残念なことに、道的をはじめ道策が後継者にと考えていた弟子が次々と早逝してしまったのです。唯一残った本因坊道知が名人碁所まで上り詰めますが、その道知も30代で亡くなってしまい、この後本因坊家は冬の時代を迎えることになります。道策が偉大だったが故に、道策や道策の薫陶を受けた弟子たちが亡くなった後は悲惨でした。本因坊家ではなかなか棋士として大成する人が現れず、道知の後「碁所」も40年間という長きにわたって空位となりました。

(2)道策の棋風
  • ―― 道策は碁の考え方を根本から変えた大天才とのことでしたが、どんな棋風だったのでしょうか。
  • 寺山 独創性に溢れ、気づかない、しかし打たれてみればこの一手と思うような妙手を繰り出す、現代でいえば井山裕太王座のような棋風だと思います。
  • ―― それはものすごくかっこいい棋風ですね。
  • 寺山 驚くのは現代の感覚を持った私たちでさえそう感じる手があるということです。道策が編み出した考え方には「厚みの近くは価値が低い」とか「手割りで石の効率を考える」など今では常識になっているものも多くあります。それらの考え方に基づく手は、今は普通に見えますが当時は画期的だったわけです。400年近くも前に現在の当たり前を実践していて、その現代に生きる私たちが見ても独創的だと思うような妙手を打っている。1人遠い未来が見えていたのではないかと思わされます。

(3)道策「生涯の一局」
  • ―― 道策の代表局を教えてください。
  • 寺山 これが難しいのですが、一応、道策自身が「生涯の一局」にあげた碁があるので、それでしょうか。
  • ―― 寺山六段はあまり納得していなさそうですね。
  • 寺山 実はこの碁、相手が2子置くハンデ戦で、しかも道策の1目負け。正直なところ私は道策と道策の師、道悦の碁や、弟子の道的との碁の方が双方ともレベルが高くて見応えがあると思うのですが・・・。
  • ―― どうしてあえてハンデ戦のしかも負けた碁を「生涯の一局」にあげたのですか?
  • 寺山 それは道策のバランス感覚でしょうね。師匠との一局を「生涯の一局」にあげてしまうと勝ち碁でも負け碁でもカドが立つ。弟子との一局もそれを聞いた人がどう思うかを考えるとあげづらい。他家の棋士と向2子局で負けた碁なら、相手もあげられて悪い気はしないし、道策自身の面目も立つ。実際に大きな舞台で打たれたいい碁ではありますし、ちょうど良かったのでしょう。
  • ―― 政治的配慮が見え隠れする「生涯の一局」なのですね。
  • 寺山 これには後日談があります。道策が向こう2子局1目負けの碁を「生涯の一局」にあげたことで、後に続く名人たちが「生涯の一局」にハンデ戦で細かく負けた碁ばかりをあげるようになったのです。偉大な先輩に倣った慣例といいますか、独特なノリといいますか(笑)。
  • ―― それだけ道策がカリスマだったということでしょうか。
  • 寺山 そう思います。ただ、私としては道策の他の碁、ハンデ戦ではない碁も楽しんでほしいという思いもあります。なので、ご興味のある方はぜひ福井正明九段の『碁神道策』を手に取ってみてください。
記・品田渓

道策「生涯の一局」
1683年(天和3年)御城碁
●安井春知(2子)〇本因坊道策 結果は黒1目勝ち(1-132手以下略)


白63(53)黒66(44)黒68(53)