寺山怜の古碁探訪(11)―安井一世算哲・二世算哲~明察で徳川に仕えた天才父子

 家元四家、その中でもとりわけ革新的かつ洗練された棋風の棋士を多く輩出した名門が安井家です。名人碁所となった二世安井算知、元祖宇宙流の七世安井仙角仙知、本因坊元丈と共に一時代を築いた八世安井知得仙知、天保四傑に数えられる九世安井算知、太田雄蔵、坂口仙得。本因坊家が中心だったとはいえ、囲碁史を紐解くと重要な場面の多くに安井家が関わっていることが分かります。
 今回の古碁探訪はそんな安井家を開いた安井算哲と、父の名を引き継ぎ棋士として活躍しながらも天文学の道に進んだ安井二世算哲こと渋川春海の物語。父はわずか11歳で徳川家康に見いだされ専属囲碁指南役となり、息子は徳川光圀の支援を受けて天文学を極め、当時としては画期的な正確無比の暦を作り上げます。囲碁はもとより、あらゆる点で一流だった父子とは。寺山怜六段に案内していただきましょう。
(1) 安井一世算哲と二世算哲はどんな人物だったのか
  • ―― 安井二世算哲は渋川春海と同じ人物ですよね。もう15年以上前ですが、渋川春海の人生を描いた『天地明察』(角川書店、冲方丁著)という小説を読みました。
  • 寺山 『天地明察』は本屋大賞にも選ばれ、2012年には映画化された名作です。渋川春海が暦を作り上げる物語ですが、囲碁のシーンも多いのでぜひ読んでいただきたいです。ところで、名前に引っかかる方も多いと思うので、そこを一旦整理したいと思います。区別するために安井一世算哲と二世算哲と書いていますが、実際には二人とも安井算哲で同姓同名です。父の算哲が早くに亡くなってしまったので、息子が父の名前を引き継いで棋士となったためにそうなりました。しかし、息子の算哲は結果的に安井家を継いでいません。囲碁家元の安井家は弟子の安井算知が継ぎ、算哲は渋川家を継いで渋川春海と名乗ったからです。
  • ―― アメリカでよくみる、◯◯Jrみたいなものですか?
  • 寺山 意味合いは違いそうですが、現象としては遠くないと思います。歴史的には二世算哲の方が有名です。しかし実は一世算哲もすごい人物。この父にしてこの子ありと思わされるので、まずは父の方からご紹介したいと思います。
  • ―― お願いします。
  • 寺山 算哲は豊臣秀吉が天下人になった1590年、清和源氏の流れを汲む名門武家に生まれました。良家の子ですから幼い頃から教養を叩き込まれ、その一つに囲碁があったようです。そして、いつからかは不明ですが、後年は本因坊算砂の弟子として知られるようになります。
  • ―― 生まれながらのエリートだったのですね。
  • 寺山 様々な教育を受けていたのは間違いないでしょう。幼少期から天才ぶりが際立っていた算哲は11歳の時、徳川三傑に数えられる榊原康政に見出され、伏見城の徳川家康に謁見しに行きます。
  • ―― いくら将来有望とは言っても、11歳で徳川家康に謁見は荷が重すぎませんか。
  • 寺山 普通はそうですよね。ところが驚くべきことに、算哲はその場を無事に乗り切っただけでなく、家康に30石12人扶持を与えられて帰路につきます。
  • ―― 30石12人扶持とはどのくらいの報酬なのですか。
  • 寺山 少し調べてみたところ、江戸時代における1石は現代における27万円程度で、30石12人扶持というのは足軽や大工、鍛冶屋などの専門職をまとめる現場リーダーと同等の俸禄だったようです。もっとも、この頃はまだ江戸時代ではないので、多少のズレはあると思いますが。
  • ―― 年収が810万円で12人程度の部下。なるほど、今でいう大会社の係長クラスでしょうか。それにしても、11歳でそんな俸禄が与えられるなんて驚きです。伏見城で一体何があったのでしょう。
  • 寺山 残念ながら資料がないので、どんなやりとりがあったのかは想像するしかありません。ただ、後年の算哲は専属囲碁指南役としてしょっちゅう家康の遠征に同行しています。教養人ですからどんな話題でも気の利いた返答ができたのでしょうし、教えるのもうまかったのでしょう。大坂の陣で豊臣方に付いた親戚を取りなして家康に引き合わせるようなこともしています。もしかしたら算砂以上に気に入られていたかもしれません。
  • ―― 算哲と家康がどんな会話をしていたのか気になりますね。
  • 寺山 現状では資料がないのですが、もしかしたら残っている可能性があります。というのも、本のタイトルは忘れてしまったのですが、昔、隆慶一郎氏の歴史小説を読んでいる時に算哲の名前を見かけた事があったからです。たしか家康の動向に関する記述で「安井算哲の書に◯◯とあった」といった形で出てきたと思います。その時私は「小説の中の話とはいえ、算哲は家康によく同行していたし、本当にそういう資料があるのかもしれない」と思いました。もし算哲直筆の日記や手紙などが残っていたらものすごい価値があるので、ご存知の方はぜひ教えていただきたいです。
  • ―― それは夢がありますね。
  • 寺山 江戸時代に入ると算哲は算砂と同様、江戸に移り住み、同じく算砂の弟子である中村道碩と徳川秀忠の御前で初の御城碁と言われる対局を二条城で披露します。ちなみに道碩はのちの井上家の始祖で、算砂の後を継いで名人碁所となる人物。算哲は非常に優秀で教養があったけれど、碁においては道碩に及ばなかったようです。
  • ―― 算哲は多方面に能力のあった人なのでしょうね。
  • 寺山 そうですね。そしてそれは息子の算哲にも引き継がれます。二世算哲もまた、幼少期から異次元の才能を発揮する有名な天才少年でした。13歳の時に父がなくなり、算哲の名を継ぎ碁打ちになりますが、算術や天文学において特に顕著な才能を示したため、徳川光圀のはからいで最高峰の研究に触れ、やがて天文学の道に進むことになります。
  • ―― 才能がありすぎて囲碁一本にはなれなかったんですね。
  • 寺山 二世算哲は上手(じょうず・七段)になっていますし、一世算哲は上手と名人の間(八段)との評価を得ています。どちらもいまでいう棋聖Sリーグや名人リーグに所属しているくらいの実力者なので、それで碁の才能がなかったとは言えません。ただ、色々できてしまうがゆえに名人まで突き抜けることができなかったという面はあるかもしれませんね。
  • ―― 寺山六段は一世算哲と二世算哲は囲碁史上にどんな影響を与えたと思いますか。
  • 寺山 算哲父子は教養に裏打ちされた洞察力があったのだろうと思います。それによって二世算哲は天地の動きを明察することができたのでしょうし、一世算哲が家康に信頼されたのは人の心の機微や情勢を明察できたからでしょう。碁は「囲碁」という独立した分野に発展していきますが、もともとは琴棋書画に代表されるように教養の一部でした。後世で碁が単なる娯楽にとどまらず、文化や教養として受け止められたのは算哲父子のような存在が大きかったと思います。碁が強いだけではない、有力者と対等に話せる知性や教養がある。囲碁が文化として重みを持ち続けた背景にはそういった人々の力があるでしょう。

(2)一世算哲と二世算哲はどんな棋風だったのか
  • ―― それぞれの棋風を教えてください。
  • 寺山 一世算哲は本因坊算砂の弟子、つまり道策以前の人物です。道策が現在に通じる棋理を数多く発見しレベルは飛躍的に上がりましたが、裏を返すと道策以前はいろいろなことが発展途上にあって、棋風を判断するのが難しい部分があります。とはいえ、強いて言うなら大局観で勝負するタイプでしょうか。
  • ―― 息子の方はいかがでしょうか。
  • 寺山 二世算哲は道策と同時代の人物です。算哲の方が5、6歳年上で、世紀の大天才道策が台頭してくるのを肌で感じていました。棋風はこちらも判断が難しいですが、中央志向のバランス型だと思います。
  • ―― 道策が身近にいたからこそ、自分は天文学の道に行こうと思ったのかもしれませんね。
  • 寺山 聡明な人ほどすごい人物がどのくらいすごいのかが明確に分かってしまうでしょうから、道策の存在が算哲を天文学の道に後押しした可能性は大いにありますね。ところで、算哲父子の一番の特徴は実験的な序盤にあります。一時期、大西竜平七段が初手を隅以外の様々な場所に打っていましたが、それに近いでしょうか。一世算哲は初手を辺に打った碁が残っていますし、二世算哲は天文学的な理由から初手天元を好みました。
  • ―― 当時としても、天元や辺から打ち始めるのは珍しかったのですか。
  • 寺山 かなり珍しい、というよりほとんどなかったと言ってもいいかもしれません。道策以前も四隅から打ち始めるのは常識でした。
  • ―― 上手くいく保証がなくても好奇心や探求心から新しい手法を試すところに、どこか一流の学者らしさを感じますね。

(3) 一世算哲と二世算哲の代表局
  • ―― 代表局を教えてください。
  • 寺山 一世算哲は中村道碩と100局以上打っており、40局程度負け越していると伝えられています。全体としては道碩にかなわなかった算哲ですが、残っている碁の中には算哲の名局もあるので、それをご紹介したいと思います。
  • ―― 第1図、黒が算哲、白が道碩ですね。
  • 寺山 道碩が算哲を評して「碁に勝っても命は取られる」と言ったとも伝えられ、剛腕なイメージがありますが、本局は捨て石を上手く使って厚みを張っています。私は道碩との碁はいつも形勢が苦しいから無理気味に仕掛けなくてはならず、それが戦っているイメージにつながっているだけで、本来の算哲の強みは大局観なのではないかと思っています。
  • ―― 二世算哲はいかがでしょう
  • 寺山 道策に初手天元で挑んだ碁を選びました(第2図)。御城碁で打たれたこの碁には歴史的な価値があります。内容はやはり、道策の完勝ではあるのですが、渋川春海が天元を北斗七星に見立てて初手に選んだことや、その相手が囲碁史に革命をもたらす大天才の道策だったことなどを考えるとロマンのある碁だなと思いますね。
記・品田渓

【第1図】
寛永3年(1626)9月17日 場所・二条城
黒・安井算哲-白・中村道碩 (黒75手以下略、黒3目勝ち)



【第2図】
寛文10年(1670)10月17日 御城碁
黒 保井算哲(渋川春海) 白本因坊道策 (白114手以下略 白9目勝ち)
*保井算哲→父の安井算哲と区別するためにしばしば用いられた表記



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