寺山怜の古碁探訪(7)―本因坊秀甫~明治期に道を切り拓いた「第一人者」兼「経営者」

 250年以上続いた江戸幕府は1868年、第15代将軍徳川慶喜の大政奉還によって幕を閉じました。日本国は明治政府という新たな組織のもとで新たな制度をつくり、時代の転換期を乗り越えたのです。そして、この大変革の余波は容赦なく当時の棋士たちにも及びました。江戸幕府から俸禄を賜って御城碁を披露してた棋士は一瞬のうちに碁を披露する場も、俸禄も失い、文字通り路頭に迷ったのです。
 当時の第一人者であった本因坊秀甫はそのような中で棋士たちに一つの道を示しました。興行になるような対局を企画し、それを面白く解説し、冊子にまとめ、出版することで自分たちの食い扶持を稼ぐ。現代囲碁の先駆けとなるようなビジネスモデルを立案し、「方円社」を立ち上げたのです。
 第7弾となる「寺山怜の古碁探訪」では新時代を切り開いていった本因坊秀甫を読み解きます。
(1)本因坊秀甫はどのような人物だったのか
  • ―― 寺山先生は秀甫がお好きだそうですね。
  • 寺山 そうなんです。子どもの頃からかなり好きで、よく図書館で秀甫の棋譜集を借りて並べていました。
  • ―― 渋いお子さんですね(笑)。
  • 寺山 まあ、それはともかく(笑)、秀甫は明治期の棋士です。つまり、江戸幕府の庇護がない。今回最大のテーマになるのは、御城碁に基づく家元制度が瓦解したあと、秀甫がどうしたのか、という点です。
  • ―― 現代にも通じるテーマですね。よろしくお願いいたします。
  • 寺山 まずは幼少期から辿っていきましょう。秀甫は本因坊家道場の隣家で生まれました。父は貧しい大工で、本来なら囲碁をやるような家ではなかったのですが、隣が道場だったために自然と親しむようになったそうです。そのうちに本因坊家の弟子となるのですが、家が貧しかったために謝礼が支払えないことも度々あったと伝えられています。
  • ―― これまで取り上げていただいた中にも、貧しかったり、平民の子だったりする名棋士はいましたね。
  • 寺山 そうなんです。本因坊丈和しかり、安井仙知知得しかり、囲碁の世界は生まれに関わらず一発逆転が可能でした。師匠の本因坊丈策をはじめ、本因坊家の人々は貧しい秀甫に温かく、「この子はいつか大成して何倍にも返してくれるだろうから気にしないでいい」と言ってくれたといいます。
  • ―― それはうれしかったでしょうね。
  • 寺山 秀甫は本因坊家の弟子の誰よりも勤勉で、囲碁の勉強だけでなく家事雑務も嫌がらずに行ったと伝えられています。それだけ恩に感じていたし、本因坊家への愛着も人一倍だったということでしょう。
  • ―― 分かるような気がします。
  • 寺山 秀甫は兄弟子に秀和、秀策がいる恵まれた環境ですくすく成長し、いずれ本因坊家を背負って立つだろうと目されるようになります。ところが、ここで二つの悲劇が襲いました。一つ目は本因坊家の跡目になれなかったこと、もう一つは江戸幕府がなくなってしまったことです。
  • ―― 江戸幕府が崩壊してしまったら、本因坊家の跡目になっても仕方がないように思いますが。
  • 寺山 今見るとそうかもしれませんが、秀甫は本因坊家への愛着が強く、本因坊家を継ぐことを切望していました。それに、これは秀甫だけではなく、代わりに跡目になった秀悦にとっても大きな悲劇となったのです。
  • ―― どういうことでしょうか。
  • 寺山 碁界は実力主義です。跡目は血筋ではなく、最も強い弟子が継ぐのが基本でした。なので、秀甫は跡目の最有力候補でしたが、丈和夫人の横やりで当時の当主、秀和の長男で実力はやや劣る秀悦が継ぐことになったのです。しかし、御城碁もなく、江戸幕府からの俸禄もない跡目というのは辛いものでした。秀和の晩年は困窮を極め、物置小屋で生活したと伝えられています。秀悦も状況に耐えられず、精神的な病になってそのまま回復することはありませんでした。
  • ―― つらい最後ですね。
  • 寺山 一方の秀甫はこの頃、放浪の旅に出ていました。どういう心境だったかは分かりませんが、越後で飲んだくれたという記録が残っています。さまざまな思いが錯綜していたのでしょう。跡目になれず、一度も御城碁に出仕することができないまま江戸幕府が崩壊した時と、秀和が亡くなった後の2回、秀甫は放浪しました。そして帰ってきた後、仲間を集めて「方円社」を立ち上げるのです。
  • ―― 「方円社」ではどのようなことをしたのですか。
  • 寺山 碁を披露する場と食い扶持、これをどう確保するかが最大の懸案でした。そこで秀甫は『囲棋新報』という月刊誌を発行しました。その中で面白い対局を組んで、秀甫自身による評を加えたのです。秀甫の評は技術的な解説だけでなく、エピソードを豊富に含んでいて、今でいう観戦記のようなものでした。さらに掲載する対局も読者に読みたいと思わせるような興行を意識したもので、発行部数はどんどん伸びていきました。
  • ―― 先駆的ですね。
  • 寺山 私も『囲棋新報』は読みました。というのも、天豊道場(藤澤一就八段が主宰する道場)で藤沢秀行名誉棋聖がよく「自分は囲棋新報で勉強した」とおっしゃっていたからです。大正生まれの秀行先生にとって、秀甫の生きた時代はそれほど遠くなかったのでしょう。先生は秀甫をとても尊敬してらして、棋風もどこか似ているように思います。方円社は全盛期、1000人以上の社員を抱えるほどに成長し、隆盛を誇りました。また、東京帝国大学のドイツ人教授に囲碁を指南し、西洋に囲碁を広めるきっかけもつくりました。
  • ―― 江戸幕府の庇護がなくなってどうなることかと思いましたが、秀甫のおかげで新しい形で碁界は復活したんですね。
  • 寺山 秀甫は勤勉で、よく気が利き、腰が低かったそうです。スポンサーの重役が来ると自らお茶を淹れてもてなしたと伝えられています。
  • ―― 修行時代も誰より勤勉で働いたとおっしゃっていましたものね。ところで、本因坊家との関係はどうなったのでしょうか。
  • 寺山 当初、秀甫と本因坊家の関係は決して悪いものではありませんでした。跡目になれなかったことについては思うところもあったでしょうが、基本は本因坊家を大事に思っていましたし、秀和の息子で本因坊家を継いだ秀悦や秀栄とも仲が良かった。特に秀栄は方円社の立ち上げメンバーでもありました。しかし、方円社が発展していく過程で仲違いしてしまいます。
  • ―― なぜですか。
  • 寺山 最大の要因は「免状」でした。江戸時代、段位は名人碁所を頂点とする家元四家によって決まっていましたが、家元制度が事実上崩壊したため、方円社は独自のクラス分けを行い、それに従って手合割りを決めていったのです。しかし、本因坊家を代表する立場である秀栄にとって、それは許し難いことでした。段位の発行は権威の象徴。本因坊家に残された唯一の力の源泉を奪われたような気持ちだったのかもしれません。対立は深まり、一時は完全に袂を分かちます。
  • ―― もしも秀甫が本因坊家の後を継いでいたら、本因坊家が方円社のようになっていたかもしれないですし、それなら秀悦が病になることも、秀栄と仲違いすることもなく力を合わせていけたかもしれないと思ってしまいます。
  • 寺山 まったく違う展開が待っていたかもしれませんよね。ほぼ絶縁状態だった秀甫と秀栄ですが、晩年には和解に至ります。2人は十番碁を行い、秀栄が秀甫に本因坊を譲ったのです。方円社で成功をおさめた後も、本因坊家を継ぐというのは秀甫にとって大きな意味があったはずです。本懐を遂げた秀甫はそれからわずか2ヶ月後に息を引き取りました。

(2)秀甫の棋風
  • ―― 秀甫の棋風を教えてください。
  • 寺山 発想が柔軟で見ていて面白い棋風です。何気ない定石であっても配石を考えてヒラキの位置を一路ずらしたり、変化したり、常に工夫することを怠らない。先ほど藤沢秀行名誉棋聖に似ていると言いましたが、秀行先生も一手一手に工夫を凝らす先生でした。
  • ―― 時代の転換期に、工夫によって活路を見出した秀甫らしい棋風ですね。
  • 寺山 秀甫の実力は歴代の名人と遜色ありません。『囲棋新報』には秀策や秀和との碁も思い出と共に掲載されていますが、互角の戦いぶりを見せています。方円社に所属する棋士もことごとく先以上に打ち込んでいて、誰の目から見てもこの時代の第一人者でした。

(3)秀甫の代表局
  • ―― 秀甫の代表局を教えてください。
  • 寺山 秀甫の棋譜はたくさん残っており、どれを選ぶか非常に悩ましいところですが、今回は秀甫の絶局となった秀栄との碁にしたいと思います。
  • ―― 本因坊家を継ぐことが決まった一局ですね。
  • 寺山 十番碁は秀栄の先番で行われ、5勝5敗となりました。秀栄もまた魅力的な打ち手です。一緒に学び、一時は同志だった2人が紆余曲折を経て最後に対局するというのは感慨深いものがあったと思います。
  • ―― 碁は「手談」といいますが、この時の対局はそれこそ、語らうことがたくさんあったでしょうね。
  • 寺山 そうですね。秀甫が亡くなると本因坊家はもう一度秀栄が引き取り、秀元、秀哉と続いたのち、関東大震災をきっかけに大倉喜七郎氏の号令で方円社等と合同。日本棋院が設立されました。当時の本因坊家当主の秀哉は「本因坊」の名跡を日本棋院に譲渡し、これにより世襲制の本因坊は終焉。現在の本因坊戦へと繋がっていきます。
記・品田渓
明治19年8月6日 横浜方円社にて
黒番・土屋秀栄 白番・本因坊秀甫
(1―100、以下略)黒4目勝ち


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