出雲阿国が歌舞伎の原型を作り、観阿弥・世阿弥が能を大成させたように、囲碁にも「始まりの人」というべき人物がいます。それが本因坊算砂です。時は戦国、野心を燃やす列国の大名がしのぎを削っていた時代に算砂は3人の天下人に仕え、囲碁が日本の伝統文化として発展する素地を作り上げました。
今回の「寺山怜の古碁探訪」では囲碁の腕一本で堂々と戦国を生き抜き、初めての職業棋士として天下に認められた本因坊算砂について紐解きます。
- ―― 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人に仕えたというのはすごいキャリアですが、そもそもどうして算砂はそんなに碁が強かったのでしょうか。
- 寺山 算砂が生まれたのは1559年。500年近くも昔のことなので、不確かなことも多いですが、算砂に囲碁を教えた人は仙也(せんや)という名前の人物だということが分かっています。
- ―― 仙也はどういう人だったのですか?
- 寺山 それがよく分かっていません。囲碁は奈良時代に日本に伝わり、平安貴族も嗜んでいましたし、陣取りゲームという性質上、武士に好まれました。なので、武士や文化人の間にはそれなりに強い人もいたと思われます。ただし、もし強い人が現れたとしても、それは一時的にそこに強い人がいたというだけの話で、それ以上の広がりを持つことは難しかったと思われます。仙也がどの程度の実力者だったのかは分かりません。けれど、ともかく算砂はこの謎の師匠によって実力を磨いたとされています。
- ―― 算砂は囲碁の腕で天下人に仕えるまでになりましたが、なぜそれが可能だったのでしょうか。
- 寺山 武士の世になったことで、囲碁の地位が高くなったという時代性と、算砂が京都の寂光寺にいたという場所柄が大きかったのではないかと思います。例えば九州に強豪がいたとしても、他の地域の人がそれを知るのは難しいでしょうし、仮に興味を持っても容易に会いに行けませんよね。
- ―― なるほど、実力が口コミで伝わりやすく、有力者が呼び寄せたり、会いに行ったりしやすい場所にいたということですね。ところで、最初に仕えた織田信長ですが、二人はどのような関係だったのでしょうか。
- 寺山 算砂が生まれたのは桶狭間の戦いの1年前。そして1582年に信長が本能寺の変で亡くなった時、算砂は22、23歳でした。なので、最初は「京に強い若者がいるらしい。どれ、ひとつ打ってみよ」という感じだったのかなと想像します。ただ、算砂が少年の頃には比叡山延暦寺の焼き討ちがあり、安土問答では寂光寺を建立した先代の日淵も当事者となりました。信長は気軽に呼び寄せたかもしれませんが、算砂は生きた心地がしなかったのではないかと想像します。
- ―― 本当ですね、少しでも失礼があったり、政治的に疑念を抱かせるようなことを言ったりしてしまったら最後、首が飛びますね。
- 寺山 若くして恐ろしい修羅場をくぐってきていると思いますね。しかし、算砂の心中はともかくとして、信長はかなり算砂を気に入っていたようです。碁の強い人を集めた会で算砂が圧勝し、「そちはまことの名人なり」と言ったという逸話が残っている他、本能寺の変の前日に算砂が御前で対局し、そこで三コウが出現したという有名な話が残っています。
- ―― 本当に算砂が信長に気に入られて良かったです。
- 寺山 そうですね、そのことを一つ取っても算砂は囲碁の腕だけではなく、人物としても立派だったのだろうと想像できます。
- ―― 次は秀吉です。信長や家吉に比べるとイメージが薄いのですが、秀吉も囲碁が好きだったんですね。
- 寺山 秀吉の家臣には囲碁好きが多いのですが、その理由の一つは秀吉が家臣らに対し囲碁を奨励していたからです。特に黒田官兵衛と浅野長政は朝鮮出兵の際に戦わずに囲碁を打っていたという逸話が残っています。
- ―― 秀吉はいくら囲碁を奨励していても、この時ばかりは戦って欲しいと思ったでしょうね。
- 寺山 そうかもしれません(笑)。他にも囲碁の強い人を集めた大会を主催し、全勝した算砂に褒美を取らせたという記録も残っています。
- ―― いよいよ家康です。家康と算砂の関わりはどのようなものだったのでしょうか。
- 寺山 家康にはたくさんのエピソードが残っていて、本当に囲碁を楽しんでいたのだと分かります。そんな家康なので、算砂は特別に重用されました。実は「算砂」というのは囲碁の棋士として付けた名前で、それ以前は「日海」で通っていました。家康は天下統一を果たすと、算砂に寂光寺は他に譲って碁所として江戸に来るよう求めました。この時、初めての職業棋士、本因坊算砂が誕生しました。ちなみに、本因坊というのは寂光寺で算砂が住んでいた場所の名前だそうです。
- ―― 家康と算砂は対局していたのですか?
- 寺山 家康に限らず、秀吉、信長とも打っていて、5子の手合い割だったとされています。他に家康と算砂のエピソードとしては「家康が碁敵の浅野長政と対局していると劣勢になってしまい、困って算砂に助言を求めた」などとも伝えられています。
- ―― 形勢が悪くなって強い人に助言を求めるなんて、いかにもアマチュアですね(笑)。ところで、全員と5子で打っていたということですが、本当に同じくらいの棋力だったのですか?
- 寺山 どうなんでしょう。皆さん天下人ですし、差を付けるわけにはいかなかったのではないでしょうか。棋譜が残っていない以上、想像するしかありませんが、何となく信長は強そうです(笑)。
- ―― ホトトギスの句のように、棋風も全然違っていそうですね。
(2) 算砂の棋風
- ―― 三者三様の天下人に仕えた算砂の棋風を教えてください。
- 寺山 これが難しいです。というのも、算砂が生きた時代はまだ系統だった囲碁の知識がなく、序盤の考え方も未発達です。なので、道策以降の棋譜と比べてしまうとやはり見劣りしてしまう。けれど逆に言えば、そこに出てくる手の大部分は算砂が独自に発見したということになります。そう思って見ると、中終盤のヨミの強さは異次元です。
- ―― 私たちは「石塔シボリ」や「石の下」を手筋として学んでいるから分かるけれど、当時は棋書もなくて一から自分で発見しないといけないのですものね。
- 寺山 当時の棋譜を並べると「この手筋はこの瞬間に発明されたのではないか」と感じることが時々あります。ちなみに算砂は囲碁だけでなく、将棋も一流だったそうです。両方とも極め、しかも戦乱の世を生き抜いたということは色々な意味で賢い人だったのでしょう。
(3) 三コウの譜
- ―― 最後に算砂の代表局ですが、もちろん三コウの譜ですよね。ただ、正直この話は出来過ぎていて、本当なのかなと疑ってしまいます。
- 寺山 たしかに算砂の逸話は後世に作られたのではないかと疑われるものが多く、史実なのか、伝説なのか、曖昧なところはあります。実際に三コウの譜は長らく作り物ではないかと言われてきました。けれど、私は本物の可能性も否定はできないと思っています。
- ―― どうしてそう思われるのですか?
- 寺山 理由は2つです。ひとつは三コウの譜の対戦相手である利玄は本能寺の僧で、しかも両者の対局は他にも20局以上見つかっている点。「棋譜」という考え方がいつ生まれたのかは分かりませんが、当時は一般的ではなかったでしょう。けれど、利玄は当時の2番手的な立ち位置だったので、二人が棋譜を付けて研究に使用していたとしても不思議はありません。実は他にも武田信玄の碁とされるものなどが紹介されている資料があるのですが、私もこれらは後で作られたのだと思います。けれど先ほど言ったように、利玄とはしょっちゅう打っていて、棋譜を残す習慣もあった。そう考えると、その中の一局がたまたま本能寺の変の前日に打たれ、たまたま三コウが出現したとしても不自然ではありません。
- ―― 算砂の棋譜は他にも残っているのですか?
- 寺山 それが利玄との碁しか見つかっていないのです。いつか他の人との碁も発見されたら面白いですね。
- ―― では、三コウの譜が本物かもしれない理由の一つ目は対戦相手が利玄だから、ですね。二つ目は何ですか。
- 寺山 長らく創作だと言われてきた大きな要因は「棋譜が途中までしか残っておらず、しかもその局面では三コウが起こりそうもない」というものでした。けれど、桑本晋平七段が2022年に7年近くの歳月をかけて三コウが起こる手順を発見され、しかもそれが論理的で自然だったために話題になりました。
- ―― それは夢がありますね!
- 寺山 三コウの譜が絶対に本物と言える証拠はどこにもありません。けれど、絶対に作り物だと言えるほど不自然な話でもない。分からないからこそロマンがありますし、それこそが歴史の醍醐味ではないかと思います。
【 三コウの譜 】
黒・利玄 白・日海(本因坊算砂)(1-128手まで以下不明)

