空気を読まずに行動する人はしばしば煙たがられ、嫌われます。しかしのちに振り返れば、そういう人こそ誰よりも真剣に考えていたり、先見の明があったりするものです。
本因坊道策亡き後、本因坊家の当主は短命ゆえに大成することができず、家同士の競争は次第に形がい化し、碁界全体にたるんだ空気が漂っていました。そのような時に現れたのが本因坊察元です。段位がなかば年功序列と合議によって決まっていたような時代に、強いものが上に立つという当然の原理を持ち出し、実力で名人碁所を勝ち取りました。
察元以降、碁界は競争原理を再び取り戻し、活気づいていきます。しかしそれほどの功労者であるにも関わらず、察元は強引な手法で軋轢を生んだ無作法者というイメージで語られ、長らく人気がありませんでした。
今回の「寺山怜の古碁探訪」では本因坊察元に光を当て、その生き様と功績を再評価していきます。
本因坊道策亡き後、本因坊家の当主は短命ゆえに大成することができず、家同士の競争は次第に形がい化し、碁界全体にたるんだ空気が漂っていました。そのような時に現れたのが本因坊察元です。段位がなかば年功序列と合議によって決まっていたような時代に、強いものが上に立つという当然の原理を持ち出し、実力で名人碁所を勝ち取りました。
察元以降、碁界は競争原理を再び取り戻し、活気づいていきます。しかしそれほどの功労者であるにも関わらず、察元は強引な手法で軋轢を生んだ無作法者というイメージで語られ、長らく人気がありませんでした。
今回の「寺山怜の古碁探訪」では本因坊察元に光を当て、その生き様と功績を再評価していきます。
- ―― 恥ずかしながら、本因坊察元は今日まで名前も知りませんでした。
- 寺山 そうだと思います。察元は人気がまったくといっていいほどなく、ゆえに書籍でも扱われることが少なく、驚くほど知られていません。なので、察元を知らなくても恥ずかしくはありませんよ(笑)。
- ―― そうなんですね(笑)。
- 寺山 ですが、この察元、本当はすごい人物なんです。もっと評価されるべきだと思っています。
- ―― 何をした人なのでしょうか。
- 寺山 古碁研究者の間では「棋道中興の祖」として知られています。道策が世を去ると碁界は停滞期に入りました。その中で察元が停滞を打ち破り、約40年ぶりの名人となって、以後の発展につなげたのです。
- ―― すごい人物なのに、なぜここまで知られていないのですか。
- 寺山 なぜでしょう。私も察元の人気のなさは不当だと思っているので不思議です。ただ、大きな理由の一つとして、同時代の棋士から嫌われていたというのはあるでしょうね。
- ―― 嫌われていたんですか。
- 寺山 はい。ただ、それは当時の時代背景を考えると周りの棋士の感覚の方がおかしいのではないかとも思えます。というのも、道策が亡くなった後の碁界はかなり弛緩した状態にあったからです。
- ―― どういうことでしょうか。
- 寺山 まず、本因坊家では当主が短命で全員大成する前に亡くなってしまうという悲劇が起こりました。圧倒的な強者がいなくなったことで各家が横並び状態となり、自然と談合するようになってしまったのです。
- ―― 談合とは具体的にどんなことですか。
- 寺山 例えばこの時期の御城碁(おしろご)ではなぜか判で押したように黒番数目勝ちとなっています。内容もどこか緩い。つまり、誰も傷つかないように各家で示し合わせていたのです。昇段についても実力より年功序列的な意味合いが大きくなり、長く続けていれば他家を脅かさない範囲で昇段していくというのが当たり前になりつつありました。
- ―― ひどい状態ですね。
- 寺山 現代の目で見るとそう感じますよね。ただ、当時はそういう秩序でした。目上の人を立てるのが当然の礼儀だったし、各家の面子を潰さないように配慮できる人が「分かっている人」だったんです。その風土の中で察元は異質でした。才能豊かな察元はあっという間にトップクラスの実力になり、22歳の若さで当主となると、すぐに七段昇段を目指しました。
- ―― 22歳でもう当主なんですか。
- 寺山 先代である伯元が27歳の若さで亡くなったために察元が当主となったのです。ちなみに伯元は亡くなった時に六段でした。この当時一流とされるのは七段からでした。七段は「上手(じょうず)」と呼ばれ、待遇も変わってきます。伯元は決して実力がなかったわけではなく、長生きできていれば間違いなく七段、八段と昇段していったでしょう。しかし、当時の考え方ではいくら実力があっても、20代で七段は早いとされていたのです。本因坊家では短命が続いたために当主の段位が三代続けて六段止まりとなっていました。これは家から一流を出せていないということになるので、当主となった察元は何としてでも七段になり、本因坊家を盛り立てたいと考えたのです。
- ―― 察元は家を思って七段昇段を急いだのですね。しかし先代は27歳でも六段に留め置かれていたなら、察元が七段になりたいと言っても反対されそうですね。
- 寺山 その通りです。「20代前半で七段なんてありえない」というのが他家の反応でした。家元制の中で四家の関係は微妙です。談合したり、協力したりすることもあるけれど、基本的にはライバルなんです。若い七段は近く八段になる可能性が高く、そうなると名人になる可能性も高い。他家に名人碁所となられると相対的に地位が低くなるので、なるべく他家から名人は出ないでほしい。そういう感覚が当たり前だったので、当然察元の七段昇段は他家の長老から猛反対を受けました。
- ―― やはりそうですか。
- 寺山 しかし、察元は諦めませんでした。まずは家元同士の対戦で実績をあげようと研究会を開こうとしますが、他家はなかなか乗ってこず、立ち消えとなりました。そこで同じ六段で井上家の跡目の春達と非公式の争碁(あらそいご・碁所就任や昇段をかけて戦う番勝負)を行いますが、今度は打ち込まれた春達が勝負を避けて打たなくなります。せっかく争碁をしたのに逃げられた察元は「昇段を認めないのなら公式に争碁の手続きを取る」と迫り、25歳でついに七段に昇段しました。
- ―― 昇段は当然です!
- 寺山 そう思いますよね。ですが、当時の棋士はそうは思っていませんでした。どちらが強いかをあえてはっきりさせず、機が熟したら昇段していくのが美徳と思っていたのです。そのため、察元の二者択一を迫るスタイルは嫌われました。
- ―― 察元はその後も二者択一を迫って昇段していったのですか。
- 寺山 基本的にはそうです。ただ、八段昇段の時は察元なりに気を遣っています。長老の1人、井上春碩因碩が八段に昇段する時を見計らって、「私も八段に」と願い出たのです。昇段することを苦々しく思っている長老も、自分が昇段するタイミングで言われたら断りづらいだろうというヨミです。実際に八段昇段はそれほど揉めることなくすんなりといきました。察元31歳の時です。
- ―― 春碩も下手に反対して「じゃあ争碁をしましょう」などと言われては面倒だと思ったのでしょうね。
- 寺山 そうですね。しかし、結局この2人は争碁を打つことになります。というのも、察元は八段に昇段すると程なくして名人を目指したからです。名人阻止のために春碩は立ち上がりましたが、争碁の結果は最初だけジゴであとは察元の5連勝。実力が違いすぎました。
- ―― これで察元は晴れて名人碁所ですね!
- 寺山 いえ、残念ながら名人にはしてもらえたけれど、碁所にはしてもらえなかったのです。
- ―― 名人と碁所はセットではないのですか。
- 寺山 基本的にはそうです。しかし他家の反発があまりにも大きかったため、幕府が「とりあえず名人にはするけれど碁所にはしない」という措置を取ったのです。納得できない察元はその後も碁所就任を働きかけ、38歳でついに念願が叶います。名人碁所となった察元は本因坊算砂のお墓参りを盛大に行い、名人の威光を存分に示しました。
- ―― 報われてよかったです。
- 寺山 忖度なく実力で名人となった察元がトップに就いたことで、周囲にも変化が起きました。まず、御城碁の内容が格段に上がります。判で押したように黒番数目勝ちだったのが、白勝ちもあれば中押しもあるというように、結果がバラつくようになりました。実力主義が帰ってくると自然と若手が活躍するようになります。少し後の時代には本因坊元丈や安井知得仙知といった名手が現れ、本因坊丈和、井上幻庵因碩らの黄金期へと続いていくのです。
(2) 察元の棋風
- ―― 察元の棋風を教えてください。
- 寺山 実戦的で現実的な手を好むという点で、小林光一名誉棋聖を彷彿とさせるような棋風だと思います。決めないで味を残すよりも、簡明に形を決めていくことが多いんです。これは正確な形勢判断力がなければ決してできないこと。察元が名人だからできた技だと思います。ですが、江戸後期にかけて察元の棋風はあまり評価されませんでした。
- ―― なぜですか。
- 寺山 「勝ち」を目指す囲碁において、棋風に甲乙はありません。しかしいつの頃からか「形を決めずに味を残す方が上品だ」という風潮が生まれたのです。けれど、後の世で小林名誉棋聖は一世を風靡しましたし、AIは実戦的で現実的な手を多用します。ある意味、察元には先見の明がありすぎたのでしょう。
- ―― どことなく、名人を目指してシンプルに二者択一を迫り続けた察元の生き方にも重なりますね。
- 寺山 察元の先見の明は他にもあります。この当時、棋士はひたすら研究だけをしているのが一般的だったのですが、察元は「伊香保で愛好家とたくさん打った」という記述があるなど、普及活動も行っていたことがうかがえます。また、御城碁と並行して幕府の高官らとのお好み碁も御前で披露しており、このような例は極めて珍しいのでとても興味深いところです。
(3) 察元の代表局
- ―― 察元の代表局を教えてください。
- 寺山 井上春碩因碩との争碁から第2局をあげたいと思います。この碁は途中で休憩を挟みつつ八日間にわたって打ち継がれました。
- ―― 八日間もかかるとは、両者の必死な気持ちが伝わってきますね。
- 寺山 そうですね。実は察元自身は井上春達との向2子局1目負けの碁を「生涯の一局」としているのですが、これは道策に倣って言っているだけなので、今回は察元が人生をかけて挑んだ本局にしました。
- ―― 古碁探訪(2)でおっしゃっていた政治的配慮の見え隠れする「生涯の一局」というやつですね。ところで、寺山六段はどうやって察元の碁を並べているのですか。私は一度も書店で察元の碁を見たことがないのですが。
- 寺山 『察元全集』というのがあるんです。これは富山在住の香川さんという方が自費出版されたのを個人的にいただいたもので、書店では売っていません。今こうして囲碁史が現在に伝わっているのは「囲碁史会(在野の古碁研究者が有志で結成している会)」の方々や香川さんのような方が地道に古文書を読み解いてくださっているからです。囲碁が日本の伝統文化であり続けるためにも歴史研究は大切ですし、埋もれている過去にこそ面白いものが隠れているので、皆さんにも古碁を楽しんでいただきたいと思います。
記・品田渓
【 本因坊察元と井上春碩因碩との争碁・第2局 】
明和3年12月6、8、9、18、19、20、25、26日 大井大炊頭宅
黒・井上春碩因碩 白・本因坊察元 104手以下略、白2目勝ち


