きら星のごとく才能で鮮烈なインパクトを残し、世を去ってしまった若き天才たち。彼らがもし長生きできていたら...。夭折の天才ほど歴史ロマンをかき立てる存在はなかなかないのではないでしょうか。
碁界にも将来を嘱望されながら天寿をまっとうできなかった天才たちがいます。彼らは短い生涯の中で多くのことを成し遂げましたが、もしも天に時間を許されたなら、それこそ、囲碁史を変えるような偉大な存在になっていたでしょう。今回の古碁探訪は夭折の天才棋士4選。寺山六段に悲しくも美しい天才の物語を案内していただきます。
碁界にも将来を嘱望されながら天寿をまっとうできなかった天才たちがいます。彼らは短い生涯の中で多くのことを成し遂げましたが、もしも天に時間を許されたなら、それこそ、囲碁史を変えるような偉大な存在になっていたでしょう。今回の古碁探訪は夭折の天才棋士4選。寺山六段に悲しくも美しい天才の物語を案内していただきます。
(1)史上最強の早熟天才棋士―小川道的(享年21歳)
- ―― 江戸時代の棋士は早く亡くなる方がとても多かったと聞きます。
- 寺山 当時は医療も発達していませんでしたし、天寿をまっとうするのは現代からは想像できないほど難しかったのでしょう。
- ―― これまで取り上げた中でも、秀策は34歳の若さで亡くなっていますね。
- 寺山 実力に加え、早逝してしまったことが人気を加速させました。ただ、秀策は生きている間に多くの棋譜を残し、記録を打ち立て、十分に成すべきことを成しているように思います。今回選んだ棋士4人は全員20代で亡くなっています。つまり棋士として「今まさにこれから」という時に世を去っているので、棋譜も実績も少ない。しかし才能は抜きん出ていて、もし生きていたら歴史を変えていただろうと思われます。
- ―― 楽しみです。1人目はどなたでしょうか。
- 寺山 小川道的、本因坊道策の弟子です。夭折の天才と言ったらまずこの人でしょう。
- ―― 期待されていたのですね。
- 寺山 期待などという表現では足りません。歴史上、早熟の天才は何人か思い浮かびますが、中でも道的は異常なほど飛び抜けていました。
- ―― 現代でも趙治勲名誉名人や井山裕太碁聖、仲邑菫四段など、小学生のうちに信じられないような強さを発揮された方はいますが、比較しても道的はすごかったということですか。
- 寺山 時代が違うので一概に言えませんが、それでも私は現代に至るまで道的以上の早熟はいないと思います。それを示す棋譜があります(棋譜1*末尾に掲載)。13歳で師匠の道策に先番で打っているのですが、なんと勝っているのです。
- ―― 道策が手加減したとかではないのですか。
- 寺山 棋譜を見ればそれはないと断言できます。道策は体系だった考え方がない時代に現在に通じる棋理を数多く編み出した大天才です。他家の棋士は手も足も出ず、満場一致で名人碁所に推薦された稀有な人物。その道策と13歳が互角に渡り合っている衝撃はとてつもなかったと思います。
- ―― それは道策も信じられない気持ちだったでしょうね。
- 寺山 そうでしょうね。それに、とても嬉しかったのだと思います。道的は僅か16歳で跡目に指名されました。跡目とは次に本因坊を継ぐのはあなたですと宣言すること。普通は棋士として大成するのを見届けてから指名するものですが、道的に関しては才能が違いすぎて迷う余地がなかったのでしょう。道的の実力は18、19歳頃には道策に並ぶほどになっていました。道策があまりにも白番で負けるので、戯れで黒を持って打ったという記録も残っています。また、ちょうどその頃、六段だった道的のもとに「六段では実力に見合わないので七段に昇段せよ」と寺社奉行からお達しが来たそうです。寺社奉行が昇段に関与するのは後に先にも聞いたことがありません。
- ―― 聞けば聞くほど段違いの才能ですね。
- 寺山 どうしてそれほど強いのか本当に不思議です。当時は強くなるための棋書があるわけでもなく、「技は見て盗むもの」という江戸時代の文化から考えても師匠が教えるのは年に数回。道策同様、はじめから囲碁が何たるかを理解していたとしか思えません。
- ―― どんな棋風だったのですか。
- 寺山 筋が抜群に良く、形勢判断に明るい洗練された碁です。もし長生きしていたら間違いなく名人碁所となり、師匠を引き継いで囲碁の考え方を前に進めていたでしょう。
(2)丈和のはるか上を行く兄弟子―奥貫智策(享年27歳)
- 寺山 次に紹介するのは奥貫智策、本因坊丈和の兄弟子です。
- ―― 丈和を取り上げた際、「跡目になれたのは優秀な兄弟子が早逝したから」とおっしゃっていましたが、その兄弟子ですね。
- 寺山 そうです。しかも丈和の跡目はそれですら危うかった。それだけ、智策が優れていて、丈和では力不足だと考える人が多かったのです。
- ―― どのくらい優秀だったのですか。
- 寺山 智策は丈和の1歳年上。つまり同年代なわけですが、実力も実績も常に丈和の上を行っていました。丈和が二段の時、智策が四段。丈和が先番で戦って打ち分けくらいの成績だったと記録されています。定先でも勝ち切ることができないということは、誰の目から見ても明白な実力差があったと言えるでしょう。
- ―― 丈和は後年史上最強を争うほどの大棋士になりましたが、それでも智策が生きていれば越えることはできなかったと思いますか。
- 寺山 それは実に面白い考察ですね。丈和はたいへんな晩成でした。なので、どこかの時点で智策に実力で並ぶことは十分考えられます。ただ、智策は秀策にどこか似ていて、堅実な棋風で人柄が良く、師匠を含め、多くの人から推されていたんですね。一方の丈和はクセの強い人物なので、仮に実力で追いついても立場で上に立つのは周りの反対から容易ではなかっただろうと想像します。
- ―― 丈和は権謀術数で名人碁所となりました。簡単には諦めない気がします。
- 寺山 それもそうですね。幻庵との確執の前に智策との確執があったかもしれません。
(3)幻庵の悲願、名人碁所になり得た器―赤星因徹(享年26歳)
- 寺山 3人目も丈和関連です。
- ―― 赤星因徹ですね。井上幻庵因碩の愛弟子で、師匠と丈和の確執に巻き込まれる形で早逝してしまった悲劇の人と記憶しています。
- 寺山 その通りです。幻庵はなかなか公式の場で打とうとしない丈和をお偉方の宴席に引きずり出し、七段の因徹と打たせた。因徹が勝てば丈和に名人の資格がないと訴え出るつもりで。ところが、丈和が劣勢を跳ね返し勝利。因徹は持病の結核を悪化させ亡くなってしまう。そういう話でした。
- ―― 本当に因徹が可哀想で仕方がありません。ただ、先番で丈和に負けたということはそれほど強くなかったのではないかと疑ってしまうところもあります。
- 寺山 それは丈和が強かったと言うべきではないでしょうか(笑)。それに、なぜ幻庵が因徹に打たせようと思ったかというと、因徹が幻庵に先番で快勝したからです。それも一局ではありません。幻庵が名棋士であることは豊富な実績が証明しています。その幻庵に先番とはいえ危なげなく連勝できる因徹はやはり、只者ではなかったと思います。
- ―― どんな棋風だったのでしょうか。
- 寺山 地にカラく、形勢判断が正確。いかにも秀才といった碁で、奔放でスケールの大きい碁で知られる師匠とは真逆の棋風です。
- ―― もし長生きできていたらどうなっていたと思いますか。
- 寺山 実力的に師匠の悲願であった名人碁所にもなり得た人物だと思います。ただ、同年代に丈和の弟子、秀和がいるんですね。秀和も非常に優秀で、後に名人の器と称揚されました。お互いの師匠のように争うのか、本因坊元丈と安井知得仙知のように生涯よきライバルとして共に時代をつくっていくのか。2人とも人柄が良さそうなので、なんとなく後者のような気がします。
(4)本因坊戦の遠因となった漢―小岸壮二(享年27歳)
- ―― 4人目はどなたでしょうか。
- 寺山 小岸壮二です。だいぶ時代を下って大正時代の棋士になります。
- ―― 恥ずかしながら、初めて名前を聞きました。
- 寺山 時代性もあると思います。家元制度が崩壊してから碁界はなかなか一つにまとまることができずにいました。秀甫が立ち上げた方円社と本因坊家を軸として、様々な会ができたり消えたりする。そんな時代が1925年に日本棋院が設立されるまで続きました。そのため、この時代にも名棋士はいるのですが、記録や棋譜が分散してしまい非常に見つけにくいという難点があります。小岸を含め、明治、大正の棋士の知名度が低いのはそういう事情もあるでしょう。
- ―― 小岸はどんな人物なのですか。
- 寺山 最後の本因坊、秀哉の弟子で、本因坊がタイトル戦となる遠因にもなった人物です。
- ―― どういうことでしょうか。
- 寺山 小岸は才能豊かで早くから活躍していました。有名なのは時事新報勝ち抜き戦という企画で32連勝の記録を打ち立てたことです。当時の第一人者、瀬越憲作と互角に戦っていたことから、若手ながら実力はトップクラスであったことがわかります。そのため、皆、小岸が本因坊を継ぐものと考えていました。ところが小岸が亡くなると弟子の中に後を託せる人物が見当たらない。そうこうしているうちに、日本棋院が設立され、呉清源や木谷實といった新時代の才能が台頭してきました。これを見て、秀哉は最も強い者が本因坊を名乗るべきだという考えのもと、日本棋院に名跡を譲渡する道を選んだのです。
- ―― もしも小岸が早逝しなければ本因坊はまだ世襲制だった可能性があるということですか。
- 寺山 現在まで世襲制が続いていたかどうかはともかく、秀哉が名跡を譲渡しなかった可能性は高いと思います。小岸であれば呉や木谷とも戦えたでしょうから。
- ―― 小岸は時代を変えるほどの逸材だったのですね。
- 寺山 そう思います。あともう一つ、小岸によって時代が変わったところがありますが、なんだか分かりますか。
- ―― なんでしょう。はじめて対局にスーツを着ていったとか?
- 寺山 ああ、なるほど。違います(笑)。実は小岸があまりにも長考派だったために、対局に時間制限を付けようという機運が高まったのです。
- ―― 昔はみんな長考だったようなイメージがありますが、その中でも小岸は長考だったのですか。
- 寺山 そうです。瀬越との対局で、9日間ぶっ通しで打ち続け、終局時に両者とも疲労困憊でその場で倒れ、次に組まれていた対局を棄権したという逸話があります。
- ―― 凄まじいですね。
- 寺山 この碁は非常にじっくりとした緻密な碁で、終盤で互いに妙手を繰り出し、最後はジゴとなりました(棋譜2*末尾に掲載)。
- ―― 1局にそこまで全力投球できるなんて、豪快というか、漢という感じがしますね。
- 寺山 逸話としては魅力的ですし、こんな風に囲碁を打ってみたいという憧れもありますが、次第にあまりにも長い碁はけんえんされるようになっていきました。この頃から棋士が対局料で生計を立てるようになっていたという事情もあるでしょう。
- ―― 確かに、1局あたりの対局料が変わらないなら早く打った方が得ですものね。
- 寺山 毎局こんこんと考え続けることができたくらいです。小岸は決して体が弱い方ではありませんでした。しかし、関東大震災で本因坊家が拠点としていた中央棋院が全焼してしまい、その立て直しに奔走する中で疲労がたまり、腸チフスに罹って亡くなりました。その生きざまは色々な意味で時代を象徴していると言えるでしょう。
記・品田渓
【棋譜1】
1682年2月12日 黒・小川道的 白・本因坊道策 (83手以下略、黒1目勝ち)
【棋譜2】
1917年(大正7年) 黒・小岸壮二 白・瀬越憲作 (228手以下略、ジゴ)黒177 白218が妙手

黒139(108)白176(101)白226(99)

