寺山怜の古碁探訪(12)―井上道節因碩~不朽の名作『囲碁発揚論』を著した異色の名人

 プロなら必ず通る道と言われる詰碁。それは実戦に必要な手筋を覚え、ヨミの力を鍛えるための練習問題ですが、同時に誰も知らなかった手筋を創出する実験場であり、解く者を魅了する芸術でもあります。
 今回取り上げるのはそんな詰碁の大家、井上道節因碩。詰碁における四大古典『玄玄碁経』『官子譜』『囲碁発揚論』『碁経衆妙』の中でも最難関とされる『囲碁発揚論』の著者です。他の三冊が手筋の基本を伝える位置付けなのに対し、『囲碁発揚論』は実戦的かつ実験的な内容が多く、研究が進んだ現代においてなお、画期的な詰碁集としてプロアマ問わず多くのファンから絶大な支持を得ています。
 道節は詰碁の大家であると同時に、本因坊道策の弟子であり、名人碁所まで上り詰めた実力者であり、本因坊道知名人を育て上げた人物です。本因坊家中心の囲碁史では光が当たることが少ないですが、碁界に多大な貢献をした大棋士と言えるでしょう。不朽の名作を世に残した鬼才はどのような人物だったのか、寺山怜六段に案内していただきます。
(1)井上道節因碩はどのような人物なのか
  • ―― 院生だった頃、休憩時間にとある人(今はプロ棋士)から突然『囲碁発揚論』の詰碁を出題された思い出があります。私自身は買ったものの難し過ぎてほとんど手を付けずに終わってしまったのですが、院生には「愛読書は『囲碁発揚論』」と公言する人が何人かいて、いかに支持を得ているかを目の当たりにしました。
  • 寺山 『囲碁発揚論』は今見ても新鮮で驚くような筋が数多く収められていて面白いんです。詰碁好きなら誰もが通る道と言えるでしょう。江戸時代に出版された棋書は数多くありますが、今でもこれだけ愛読者がいるのは稀有です。それだけでも道節はすごい人物だと言えますが、道節自身の人生もなかなか味わいがありますし、実力も一流で名人碁所になっています。
  • ―― 味わいのある人生、がぜん興味が湧いてきました。
  • 寺山 道節が生まれたのは1646年、徳川家光の時代です。本因坊道策が1645年生まれですから、完全に同世代。それでも道節は道策の才能を心から尊敬し、弟子入りを志願します。入門当時、道節はそれほど強くなかったと思われます。しかし囲碁にとてもひたむきでした。少しずつ着実に強くなり、道策門下生の中でも特に強い五弟子に数えられるようになります。
  • ―― 若い門下生に混ざって一目置かれる存在に成長するなんてすごいですね。
  • 寺山 道節以外の4人は才能あふれる若者でした。特に小川道的は異常な強さで早々と跡目(次に本因坊家を継ぐ人物)に選ばれます。
  • ―― 五弟子の中で道節はどのような立ち位置だったのですか。
  • 寺山 それが非常に微妙で、道策を悩ませた部分でした。その頃の道節はすでに実力は申し分なく、年齢も自分と変わらない。弟子とはいえ友人のようでもあり、気を遣う相手でした。それでも、道的がいるうちは才能が誰から見ても抜きん出ていたので異論は出なかった。けれど、道的が夭折してしまったことで道節をどう処遇するかが悩ましい問題として浮上しました。
  • ―― つまり、道節を跡目にするかどうか、ということですか。
  • 寺山 そうです。道策としてはできれば若い弟子を跡目にしたいと考えていました。けれど、全員実力が同じくらいなら、年功序列的に道節の顔を立てないとカドが立ちます。困った道策は弟(甥という説もあり)で井上家を継いでいた井上道砂因碩に頼んで道節を井上家の跡目にしてもらうことにしました。
  • ―― なるほど、それで丸く収まったのですね。
  • 寺山 いえ、それがそうではないのです。というのも、道節が井上家に出てしまった後、残った跡目候補の弟子が全員亡くなってしまうという悲劇が起こったからです。道策は困り果て、体調を崩し、命まで危なくなりました。
  • ―― 悲惨な状態ですね。
  • 寺山 道策は自分の死期を悟ると、道節を呼び寄せ、お願いをしました。「ここに道知がいる。13歳で未熟だが才能はある。本当なら自分が一人前に育てたいが、できそうにない。だから、君に後を託す。後見人となって私の代わりに彼を一人前に育てて欲しい」。そして道節を八段に昇段させ、「これは私からの気持ちだ。ただし、名人碁所は目指さないように」。そう言い残して世を去りました。道節45歳の時です。
  • ―― えっ?道策先生、自分勝手過ぎませんか?前半では感動したのに、後半で一気に冷めてしまいました。
  • 寺山 まあ、そうですよね。この最後の「名人碁所は目指すな」の一言によって、この後がいろいろとややこしくなっていきます。碁神と称えられる道策の唯一の汚点と言ってもいいでしょう。一つ付け加えるなら道知は道策の実子ではないかという噂もあります。記録に明示してあるわけではないのですが、13歳の道知を当主にするというのはいくら有望でもさすがに若過ぎますし、道策が後を継がせることを決意した譜を見ても道的にははるかに及ばず、有望な若者の域を出ません。これらを総合して考えると、実子だから特別に期待を寄せたのではないかと疑われるのです。
  • ―― なるほど、道知が自分の息子だとするなら、道策の自分勝手なお願いも分かるような気がします。
  • 寺山 後世から見ると自分勝手に見えますが、道節は師匠の遺言を重く受け止め、できるだけ守ろうと努めました。当時道節は井上家の当主であったにも関わらず、本因坊家に居を移して道知の教育に力を注いだのです。江戸時代、師匠が弟子を手取り足取り教えることは一般的ではありませんでしたが、道節はかなりの局数を道知と打っています。その甲斐あって道知は順調に成長し、18歳の時、ついに七段上手に見合う実力を付け、道節はこれをもって後見人を降りました。
  • ―― 道節は律儀と言いますか、義理人情に厚い人ですね。
  • 寺山 そうですね。最も大変な時期に支えてくれて、しかも碁の技術を惜しみなく伝授してくれた道節に、道知は頭が上がらなかったと言います。そして、これほどまでに尽くしてくれた道節に深く感謝して「どうか九段になってください」とお願いをしました。
  • ―― ・・・九段は確か、名人ではなかったですか。
  • 寺山 その通りです。
  • ―― でも確か、道策の遺言に名人になるなと書いてありましたよね。
  • 寺山 そうなんです。ただ、道知は師匠で大恩人の道節に感謝を込めて名人になってもらいたいと望みました。一方で道節は先代の遺言で名人碁所になることを止められている。正直なところ、この時の道節は実力的にも実績的にも名人碁所になるのに何の不足もありませんでした。ただ、遺言だけがそれを阻んでいる。そこでギリギリの妥協策として、名人にはなるけど碁所にはならない、ということになりました。
  • ―― 本因坊察元の時にもありましたね。
  • 寺山 ある意味、ここで変な前例を作ってしまったから察元が被害にあったとも言えますね。ただ、この碁所にはならない作戦は結局無駄になります。事の発端は琉球使節団がやってきたことでした。道策の時代にもありましたが、琉球の棋士と対局し、免状を発行するというのは外交的な一大イベントです。免状には当時の名人碁所が印を押していたのですが、碁所は空位のまま。誰が印を押すんだとなった時に、道節が適任だろうということで、ついに名人碁所となります。
  • ―― なるほど、必要に迫られたなら遺言を破っても仕方ないということですか。
  • 寺山 そうですね。ただ、もしこの外交イベントのために一時的に碁所になったというなら、すぐに降りるか、そこまでしなくても頃合いを見て道知に名人位を譲ればよかったのですが、欲が出てしまったのでしょう。結局道節は74歳で亡くなるまで名人碁所を降りず、道知は道節が亡き後、自力で各家を説得し、名人位を獲りに行かなければならなくなりました。
  • ―― 人間らしいですね(笑)。
  • 寺山 ちなみに、歴史的な名著である『囲碁発揚論』は道知が一人前になり、道節が井上家に戻ってから井上家の秘伝の書として編纂されました。門外不出とされ、長らく隠されていたのですが、明治大正期に発見され公になりました。『囲碁発揚論』の問題には道節が実戦で打った手や形が元になっているものも多く、道節が非常に研究熱心だったことが伝わってきます。

(2)道節の棋風はどのようなものだったのか
  • ―― 道節の棋風を教えてください。
  • 寺山 愚直な武闘派というのが私の印象です。現在の棋士で言うと山下敬吾九段結城聡九段が近いのかなと思います。そして、江戸時代の武闘派は往々にして大器晩成だったというのが私の持論です。
  • ―― どういうことでしょうか。
  • 寺山 江戸時代は教材が限られていたので、大局観やセンスを外部から身に付けるのはなかなか大変だったのではないかと想像します。そうなると、早熟な天才には自然と生まれた時から囲碁が分かっているような、センスと大局観に優れた人物が多くなりがちです。一方で大器晩成な秀才には並外れたヨミの力があることが多い。スタートは天才に押され気味であっても、経験によって戦い方をどんどん洗練させていき、最終的には天才と同じくらいの高みにいる。本因坊丈和が典型ですが、道節もまた、そういうタイプだったのではないかと思います。
  • ―― だから『囲碁発揚論』を作れたのですね。
  • 寺山 しらみつぶしに読むことを厭わないような人でなければ新しい筋を見つけたり、長手数の大型詰碁を作ったりはできません。そういう意味で、道節は道策とは違った種類の天才だったのかもしれませんね。

(3)道節の代表局
  • ―― 道節の代表局を教えてください。
  • 寺山 悩みましたが、道知との十番碁から紹介することにしました。この十番碁は道知が17歳の時に行われたものです。実はこの翌年にも七番碁が行われたと伝えられています。そこで道知が先相先(下手が3局に2番先手で打つハンデ)で道節に勝ち越したために道節は道知の七段を認め、後見人を降りたそうです。ただ、この七番碁の棋譜はどこに消えてしまったのか、いまだに見つかっていません。もし残っていれば、素晴らしい内容だったと思います。
  • ―― それは残念ですね。今回紹介していただく1年前に行われた十番碁はどのような結果だったのですか。
  • 寺山 道知の定先で行われ、道節の6勝3敗1持碁でした。
  • ―― 道知は先番でも道節に負け越してしまったんですね。逆に言えば、1年でものすごい成長を遂げたということですか。
  • 寺山 そうです。だからこそ、翌年に打たれた七番碁が失われてしまったのが惜しいと思います。道知は道節が亡くなってしばらく後、他を寄せ付けない強さで名人碁所に就きました。しかし残念ながら38歳の若さで亡くなり、その後しばらく本因坊家をはじめ碁界は冬の時代に入ります。

宝永3年(西暦1706年)2月14日 十番碁第6局
黒・本因坊道知 白・井上道節因碩 (133手まで以下略、白3目勝ち)


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