寺山怜の古碁探訪(9)―太田雄蔵~秀策を鍛えた粋でいなせなイケメン棋士

 江戸後期、日本の囲碁文化は最高潮に達していました。本因坊丈和、井上幻庵因碩に始まり、秀和、秀策が活躍したこの頃は、棋士の人数も多く、日本囲碁の黄金期と言われています。
 さて、この黄金期に大活躍をした4人の棋士がいました。天保四傑です。今回はその中でもとりわけ見目が麗しく、出色の活躍を残した太田雄蔵を取り上げたいと思います。盟友、安井算知とのイケメンコンビ。自らの価値観に基づいて名誉を打ち捨てる江戸っ子気質。伸び盛りの秀策との30番碁。禁欲が叫ばれる天保時代に軽やかに我が道を貫いた粋でいなせな太田雄蔵とは。寺山怜六段に早速案内していただきましょう。
(1)太田雄蔵はどんな人物だったのか
  • ―― 今回は太田雄蔵です。天保四傑の一人と伺いました。
  • 寺山 天保時代(1830―40年代)に特に活躍した4人の棋士、太田、安井算知、阪口仙得、伊藤松和を指して天保四傑と言います。本因坊丈和、井上幻庵因碩の晩年で、秀和が台頭してくる頃ですね。この4人は名人碁所とまではいかないけれど、そのクラスにも勝ち得る実力を持っていました。今でいう棋聖Sリーグと名人リーグ両方に入っている打ち手といった感じでしょうか。
  • ―― 大変な実力者ですね。ところで、家元四家以外にも棋士はいたのですね。
  • 寺山 天保四傑で四家を継いでいるのは算知だけ。後は全員外家ですが、これは珍しいことではありません。家を継げる弟子は基本的に1人ですから、他の弟子は違う家督を継いで棋士を続けるわけです。ちなみに太田は安井家の弟子になります。江戸の商人の息子だった太田は幼少期から碁を嗜んでいたそうです。
  • ―― 江戸の商人ですか。チャキチャキの江戸っ子という感じがしますね。
  • 寺山 その通りです。「江戸っ子」というのは太田を語る上でキーワードになってきます。ところで、太田は大変なイケメンでした。そして、3歳年下に師匠の息子で同じく天保四傑に数えられる算知がいましたが、この彼もまた大変なイケメンでした。古碁好きの間ではしばしばどちらがよりイケメンだったかで議論が起こるくらいです。
  • ―― 写真があれば・・・。
  • 寺山 残念ながらもう50年ほど待たなければ市井の人が写真を撮る時代にはなりませんね(笑)。資料にはこのようにあります。「眉秀で瞳涼やか、漆黒の頭髪豊に結びたる一個の好男子なり」
  • ―― 目元がはっきりしていて髪がふさふさのイケメンですか。
  • 寺山 算知の容姿に関する記述が今手元にないのですが、女性関係が色々あったという資料はあるので、大変モテたのは間違いありません。容姿端麗な2人はなかなか気が合ったようで、囲碁の修行だけではなく、遊びも一緒にしていたそうです。
  • ―― 江戸っ子で、イケメンで、イケメンの友だちと繰り出したら、そりゃモテたでしょうね。
  • 寺山 そうでしょうね(笑)。師匠の知得は遊び歩くことについては一切何も言わなかったそうです。その代わり、囲碁で不甲斐ない負け方をするとすごく怒られた。太田はそれなりに遊んだりもしつつ、着実に力を付けていき、30歳で六段になります。
  • ―― 今まで秀策や道的などもっと若くして七段になった人たちばかりを紹介していただいていたので、30歳で六段は遅い感じがしてしまいます。
  • 寺山 秀策や道的は歴史を変えるほどの大天才ですから、それが普通とは思わないでください。30歳で六段は十分順調といえます。七段が一つの頂点で、それ以上は余程のことがない限り行けない時代です。ところで、七段がなぜ一つの頂点なのか分かりますか?
  • ―― たしか、七段は「上手(じょうず)」と呼ばれて待遇も格段に良くなると伺いましたが。
  • 寺山 そうです。ではなぜ七段は上手で待遇が良いのかというと、御城碁に出仕できるからです。御城碁、つまり将軍の前で碁を披露するというのは七段上手以上の限られた棋士の特権でした。皆、基本的にはそこを目指して戦っていると言っても過言ではありません。ところが、太田は皆が驚くような行動にでました。40歳で七段昇段の話が舞い込んできた時、太田は御城碁の出仕を断ったのです。
  • ―― なぜですか?
  • 寺山 太田は漆黒の髪を豊かに結い上げたイケメンです。ですが、出仕時は剃髪する決まりだったので、太田はそれを嫌がったのです。
  • ―― 丸刈が基本の野球部に長髪のオシャレさんが来たかのような理由ですね(笑)。
  • 寺山 面白いですよね。しかも、もっと面白いことに、太田の「髪を剃りたくないから出仕したくない」という理由は受け入れられて、七段に昇段はするけれど、出仕はしなくていいということになったのです。
  • ―― すごい!!
  • 寺山 本当にすごいことです。江戸時代における幕府の権威は相当だったと思うのですが、そのご公儀の言うことにサラッと従わない太田もなかなかですし、太田の言い分を聞いてくれた幕府側も寛容と言いますか、いいなあと思います。人によっては幕末近くなりだんだんと幕府の権威が落ちてきたから出来たことだという人もいますが、どうなんでしょう。歴史学者の方にご意見を伺ってみたいところですね。
  • ―― しかし、出仕しないとなると、対局はどうなるのですか?御城碁に出ないでどんな仕事をしていたのでしょうか。
  • 寺山 市井に愛好家がかなりたくさんいましたから、何かと請われて打つ機会はあったと思われます。また、太田は碁会所経営も行っていました。ある意味、幕府の庇護がそこまで重要ではなくなるくらいに囲碁が盛んになっていたということなのかもしれませんね。
  • ―― 太田と言えば秀策のライバルと聞いたことがあります。
  • 寺山 太田は秀策の22歳年上です。なので、ライバルというのは少し違うかなと思います。ただ、太田は秀策とは本当にたくさん打っているんですね。最初に打ったのは秀策14歳の時。秀策が太田に2子置いて対戦し、太田が勝ちました。
  • ―― おお!!
  • 寺山 秀策とはその後も秀策が成長して互先になるまで実に50局ほども対戦したというのだから驚きです。
  • ―― 秀策はかなり鍛えてもらっていたのですね。
  • 寺山 そうですね。秀策の才能は誰が見ても明らかでしたが、太田は数多く打っているだけに手応えも感じていたのでしょう。とある日、碁好きの旗本の家で太田を含む四傑が集まる機会があり、皆が口々に「今は秀策が一番強いんじゃないか」と言いました。しかし当時互先で打ち分けていた太田は一人同調せず、「皆さんが何とおっしゃるのも自由ですが、私の意見ではないので」と距離を置きました。それならとその旗本が発起人となり太田と秀策の打ち込み30番碁が企画されたということです。
  • ―― ワクワクする企画ですね!!結果はどうなったのですか?
  • 寺山 30番碁が始まった時、秀策は24歳で太田は45、6歳。すでに皆が一番強いのではないかというほどに成長した秀策に、当時としては初老と言ってもいい太田が挑むわけですから大変だったと思います。しかし、太田はかなりしぶとかった。17局まで互先で持ち堪えましたがついに6勝10敗1ジゴで先相先(3番に1回白を持つ)に打ち込まれました。そしてさらに1勝3敗1ジゴとなり、追い込まれて23局目、この碁は太田が白を持ったのですが、ここで渾身の打ち回しでジゴにします。
  • ―― 秀策は黒番に負けがないことで有名ですよね。白を持ってジゴにするのはすごいことではないですか?
  • 寺山 すごいことです。この碁は太田生涯の一局となります。そしてここで30番碁は打ち止めとなりました。太田はこの碁が打たれた翌年に秀策の七段昇段披露会に出席し、四傑の一人、伊藤松和との碁を披露しています。太田と秀策は門下も違えば年齢も親子ほど離れていますが、碁を通じて特別な関係だったのかもしれません。この後、太田は越後に旅行へ出かけ、そのまま帰らぬ人となりました。

(2) 太田の棋風
  • ―― 太田の棋風を教えてください。
  • 寺山 華麗な碁で早打ちでした。いかにも天才肌といった感じで、打つ手打つ手にセンスが溢れている。現代でいうと小林覚九段のような棋風でしょうか。
  • ―― 棋風も粋でいなせだったのですね。
  • 寺山 算知とは仲が良かったのですが、こと碁の内容に関してはしょっちゅう喧嘩をしていたようです。というのも、算知の碁は剛腕を絵に描いたようで、ハイセンスな太田とは真逆だったからです。
  • ―― 面白いですね。
  • 寺山 こんな話があります。この当時複数人で組んで一局を打つ連碁が流行っており、たまたま企画で算知と組むことになった太田は、局後非常に不機嫌で、打ち上げにも参加せず、さっさと帰ろうとしたそうです。会の主催者が「どうされましたか」と聞くと、「俺は味を残す打ち方をしているのに、あいつはその味を全部消してきやがる。あいつは本当に何も分かっていない」と言ったそうです。
  • ―― 光景が目に浮かぶようです(笑)。
  • 寺山 仲が良いからこその遠慮のなさという感じもしますね。蛇足ですが、算知も太田が亡くなった2年後に旅先で亡くなりました。それも、ヤクザの親分の妾とねんごろになったために殺されたという説があります。今回はあまり出てきませんでしたが、天保四傑は皆、個性的でそれぞれに面白い話が残っているので、いずれご紹介できたらと思います。

(3) 太田の代表局
  • ―― 代表局はもちろん、秀策との30番碁23局目で白番ジゴにした1局ですね。
  • 寺山 はい。この碁は太田の良いところがすべて出たと思います。黒番の秀策にも悪手らしい悪手はなく、相手のミスに助けられたという感じもしません。
  • ―― 会心の出来だったのですね。
  • 寺山 そうですね。ただし、ラッキーパンチというほどでもないでしょう。四傑は基本的に秀和、秀策に対してもかなり善戦していました。太田自身、秀和に白を持ってジゴにした碁も残っています。代表局であるのと同時に、そのくらいのことはできる実力があったという証でもあるのではないでしょうか。

1853年11月 田村重右衛門宅
黒・本因坊秀策 白・太田雄蔵 (1-88、以下略。結果・ジゴ)

記・品田渓

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