みなさんは「歴史」がお好きですか?変化の激しい現代社会、「昔のこと」はまるで別世界です。それでも「昔」は確かに「今」と地続きにある。そう思うと理屈抜きで何だかロマンチックな気持ちになります。特に囲碁は日本の伝統文化。昔の名棋士の姿や名勝負を紐解けばもっと囲碁が面白く感じること間違いなしです。
ということで、新企画「寺山怜の古碁探訪」のスタートです。寺山怜六段は棋界きっての古碁通で、監修を務めるマンガ『碁と伍』にも数多くの古碁を登場させています。最初のテーマは「本因坊秀策」。しばしば棋士最強とも評される秀策はどんな人物だったのか、そしてあの「耳赤の一手」が打たれたのはどんな対局だったのか。さっそく寺山六段にめくるめく古碁の世界を案内していただきましょう。
(1) 秀策はどんな人物だったのか
- ―― 最初のテーマは「本因坊秀策」です。本因坊秀策といえばマンガ『ヒカルの碁』で藤原佐為がヒカルの前に取り憑いた人物で有名です。
- 寺山 そのイメージは強いですよね。藤原佐為は実在しませんが、秀策は実在します。マンガで語られていた通り、最強棋士とも言われる江戸時代後期の名棋士です。
- ―― やはり最強棋士だったのですか?
- 寺山 そういう人もいますが、他にも強い棋士はたくさんいるので、最強棋士の一候補と言った方が正確です。ただ、知名度とファンの多さはダントツで1番。たくさんの名棋士がいる中で秀策が特別なのは間違いありません。
- ―― 誰が見ても歴史上1番というわけではないのですね。
- 寺山 秀策が一番強かったと言われる根拠は「お城碁(おしろご)」という将軍の前で行われる最も格の高い対局で19連勝無敗の記録を打ち立てたところにあります。これは本当に凄まじい記録です。ただしこの「お城碁」は現在のタイトル戦とは異なり、必ずしも最強を決める対局ではありませんでした。また、秀策以前の名棋士、たとえば本因坊道策や本因坊丈和などと比較して秀策の方が絶対に強いとは言えません。
- ―― それでも秀策は特別なんですよね。どうしてですか?
- 寺山 それは、秀策が人格的にとてもできた人で、しかも早逝してしまったからです。
- ―― ・・・悲劇的ですね。
- 寺山 実は、秀策は名人ではないんですよ。
- ―― そうなんですか?てっきり当時のナンバーワンで名人だと思っていました。
- 寺山 当時は九段を名人、八段を準名人、七段を上手(じょうず)と呼んでいました。秀策の最終段は七段です。ですが、それは名人の実力がなかったからではなく、秀策が謙虚で無理矢理段位を上げるようなことをしなかったからです。
- ―― 勝てば段位が上がるというものではないのでしょうか。
- 寺山 江戸時代は本因坊、安井、井上、林の四家による家元制度を取っていました。昇段するには推薦を受けたり、「争い碁(あらそいご)」という昇段をかけた対局を他家としたりする必要があるのですが、他家は他家で面子がありますから、負けそうな対局は受けたくないのです。詳しくは長くなってしまうので他の機会にお話ししたいと思いますが、家元制の中ではけっこう政治的な駆け引きがあります。強いからといって他家への配慮がなかったり、同じ本因坊家内でも先輩を差し置いて出世しようとしたりすると失礼だと思われてしまう。その点、秀策は完璧で、誰に対しても謙虚で失礼がないように接していました。ゆえに段位は七段止まりだったとも言えます。
- ―― 強ければ名人になれるというものではなかったのですね。
- 寺山 強くなければ名人にはなれないけれど、強ければ名人になれるかというとそうではない。そこら辺は色々と面白い部分なのでいずれお話しできたらと思います。さて、秀策は謙虚で配慮が行き届いているだけでなく、本当に優しい、素晴らしい人柄だったようです。目上の人への配慮だけでなく、後輩に対しても優しく、地元、現在の広島県因島のことも大切にしていました。秀策はコレラの罹患者を看病した結果、自分が罹患して34歳の若さで亡くなってしまいます。秀策の死を悼む声は大きかったようです。因島では秀策の足跡が広く語り継がれ、本因坊家の門弟の中から棋譜集を編纂する運動が起こりました。今でも因島に行くと秀策の存在の大きさを感じます。惜しまれ、愛されたという点では歴代の棋士ナンバーワンであることは間違いないでしょう。
(2) 秀策の棋風
- ―― 秀策といえば秀策のコスミ(1図)が有名ですが、どのような棋風だったのでしょうか。

1図 黒7が秀策のコスミ
- 寺山 当時はコミという考え方がありませんでしたから、黒番有利は周知のことでした。そして秀策には黒番での負けがありません。大石を取りにいくようなハイリスクハイリターンの碁はいくら黒番でも絶対に負けないというのは難しい。ここからも分かるように、秀策の碁は安定感抜群で堅実でした。
- ―― 安定感抜群で堅実・・・。天才のイメージが強かったので、もっと華々しい棋風なのかと思っていました。
- 寺山 福井正明九段の古碁名局選集で秀策は『秀麗秀策』とタイトルが付けられています。確かに秀策の碁は安定感抜群で堅実でしたが、決してつまらなくはありませんでした。形が美しく形勢判断が的確で自然に勝てる。戦いの華々しさとは違った、洗練された華のある碁だと思います。
(3) 耳赤の一手
- ―― 秀策の代表局を教えてください。
- 寺山 「耳赤の一手」が出た一局(2図)でしょう。これはおそらく史上最も有名な碁だと思います。

黒43(33)白46(40)黒49(33)
2図 先・本因坊秀策四段 井上幻庵因碩八段、黒3目(2目という説もあり)勝ち、黒127手目が「耳赤の一手」
- ―― 『ヒカルの碁』にも出てきましたし、日本棋院で販売されているグッズのデザインにもなっていますね。どんな碁だったのでしょうか。
- 寺山 この碁は一言でいうと秀策のデビュー局です。この一局が秀策を世に知らしめるきっかけになりました。実はこの碁、公式戦ではないんですよ。
- ―― こんなに有名な碁が公式戦で打たれたものじゃないんですか!?
- 寺山 江戸時代の公式戦というと「お城碁」ですが、他に公式性が高いものとして昇段などをかけた「争い碁」がありました。この碁はたまたま井上幻庵因碩という非常に高名な打ち手と秀策が同じ大阪にいたことから地元の名士がセッティングしたお好み対局だったんです。
- ―― それがここまで有名になったんですか!
- 寺山 大勢の人が見物に来ていたでしょうから、口コミで伝わっていったのでしょう。「耳赤の一手」の由来は、誰もが白番の幻庵が勝つと思っていたところ、秀策の放った手に幻庵の耳が赤くなったのを見た医者が「相手が動揺している。秀策が勝つ」と予言したことと伝えられています。この時、幻庵は名前の通ったベテランの準名人、秀策は18歳の若者で四段でした。実はこの対局の前に秀策は当時の手合割に則って2子で挑み、圧倒しているんです。幻庵はあまりの強さに驚き、最後まで打たずに手合割を改めようと提案したと言われています。
- ―― 新鋭秀策が次は先でどう戦うのかと見物に来ていた人たちが盛り上がっていたのですね。
- 寺山 この時代、段位による序列は非常に重いものでした。今以上に幻庵に先で勝つことがセンセーショナルだったと思います。だからこそ、この一局については幻庵がよく受けたなと思いますね。
- ―― といいますと?
- 寺山 現在はプロであれば全員互先で打ちますし、多くの棋戦があるので勝っても負けてもその時の対局でどうだったかというだけの話です。しかし江戸時代は対局数が少なく、段位はそのまま実力を示す指標でした。しかも何かにつけて評判、出世、俸禄、所属する家や師匠の面子とさまざまなものが乗っかってくる。特に上手が下手に負ければ何を言われるか分かりません。したがって江戸時代の棋士は負けそうな相手や、勝ってもメリットのない相手との対局は避けがちなんです。その点、このお好み対局は幻庵に何のメリットもないどころかリスクばかりがある。正直、断れた対局です。
- ―― 江戸時代の対局は恐ろしいですね。それを聞くとどうして幻庵は秀策と打ってくれたのだろうと思います。
- 寺山 それは幻庵の人柄でしょうね。いずれお話ししたいと思いますが、幻庵もとても魅力的で人気のある名棋士です。この対局は秀策の才能を象徴すると同時に、幻庵の器の大きさも象徴している対局だと思います。
記・品田渓

