「赤穂浪士」が人気の演目になったように、人々は負けた方にどうしようもない魅力を感じてしまうことがあるようです。江戸後期、本因坊丈和と名人碁所を目指して激しく争った棋士がいました。井上幻庵因碩です。結局、幻庵は権力争いに敗れます。しかし、その人柄と生き様は多くの人の心をとらえ、こと人気という点においては丈和をはるかに凌ぎました。
挫折を知った人特有の味わい、人情とおかしみ、天才的な発想と不運。今回の古碁探訪では一筋縄ではいかない人生を全力で駆け抜けた井上幻庵因碩を紐解きます。
- ―― 江戸期の棋士で誰が好きですか?とアンケートを取ると「幻庵」と言われる方が非常に多いです。
- 寺山 分かります。私も幻庵が一番好きでした。手に取りやすい棋書には幻庵が魅力的に描かれていることが多いので、いつの間にか好きになってしまうんですよね。
- ―― どんなところが魅力的なんでしょうか。
- 寺山 ひとことで言うのは難しいですね。というのも、幻庵はいろいろな顔を持っていて、一筋縄ではいかない人物なんです。まず「我、不幸にして碁を覚えたり」なんてことを言っています。非常に才能豊かで、準名人にまで上り詰めた実力者でありながら、「ああ、囲碁なんて覚えなきゃよかったな」と言うわけです。もちろん冗談めかして言っているのだと思いますが、頂点に立てなかった悔しさや、ひねくれた気持ちが伝わってきますよね。
- ―― 私もプロを諦めた直後は「囲碁なんて」という気持ちになりました。何だかすごく人間的ですね。
- 寺山 はたから見たら十分に成功者なのですが、頂点を目指していた幻庵は常にうまくいかない気持ちを抱えていたようです。それが影響してなのか、そういう気質だったのか、囲碁以外のことにも精力的だったことで知られています。当時の棋士はひたすら碁を打っている人がほとんどですが、幻庵は兵法の研究にも熱心で、兵法と囲碁をからめた戦術書『囲碁妙伝』を出版したり、各地に出向いて兵法の講演会を行ったりしていたと記録が残っています。
- ―― 多才な人だったのですね。
- 寺山 多才かつ行動力があります。当たり前ですが、当時の移動は徒歩です。けれど幻庵にはあちらこちらでいろいろな人と打ったり、会ったりした記録が残っているんです。秀策とも大阪で打っていますし、そういうフットワークの良さや、誰とでも快く打ってくれる度量の大きさが愛される一つの要因でしょうね。
- ―― 優しい人だったんですか?
- 寺山 優しいかどうかは分かりませんが、親分肌で情に厚い人だったのは確かでしょう。幻庵にはいわゆる妾がいたそうなのですが、なんとその女性と自分の弟子が恋仲になって駆け落ちをしてしまったことがありました。それを知った幻庵は彼らが隠れている裏長屋に出向いて弟子に言ったそうです。「俺は女は惜しくない。ただお前の才能が惜しい。ちゃんと囲碁の勉強は続けるんだぞ」。そして碁盤一式を置いて帰っていきました。
- ―― 女性の一人として素直に感動できない部分もありますが、なんというか、すごい人ですね。
- 寺山 少なくとも弟子は感動したでしょうね(笑)。実際、この弟子は囲碁を続け、七段にまでなり、服部家という井上家と関係が深い家を継いでいます。
- ―― 自分の彼女に横恋慕して駆け落ちした弟子を破門にしないで最後まで面倒を見るというのは確かにとんでもなく懐が広い、大きな人という感じがします。
- 寺山 「大きい」というのは幻庵を表す一つのキーワードかもしれません。碁所就任を目指して丈和と政治的に激しくやり合う中で、決して褒められない姑息な裏工作もしてはいるのですが、最後は大胆不敵で天才的なところがあるんです。そしてその最たるものが密航して清国(中国)に入国しようとしたことでしょう。
- ―― 密航して清国に入る?どういうことですか?
- 寺山 日本で囲碁の頂点に立てないなら清国で一旗揚げようと試みたのです。幕府の保護下で日本の囲碁は大きく発展し、その技術は囲碁伝来の地、中国を凌ぐほどになっていました。そこに目を付けた幻庵は日本の技術を清国に輸出し、より大きな土地で大きな名声を手にしようと考えたのです。
- ―― 起業家のような発想ですね。
- 寺山 国内の移動は幕府によって制限され、外国との付き合いも限定されていた時代。密航というからにはもちろん違法です。その中でこれを思いつくというのは相当天才的だったと思います。そして幻庵は行動力がありますから、本当に清国行きの船に乗り込みました。
- ―― 成功したんですか?
- 寺山 いえ、残念ながら途中で嵐に遭い、路銀をすべて失って命からがら戻らざるを得なくなりました。
- ―― それは、大変な目に遭いましたね。
- 寺山 そうですね。ただ、幻庵は顔が広く人望もあったので、力を貸してくれる人も現れました。無一文になり江戸までの路銀を稼ぐ必要があった幻庵は佐賀の友人の世話になりながら手あたり次第に免状を発行して資金を稼ぎます。この時、実力がない人にも簡単に免状を発行したことから、のちに実力を伴わない初段を「幻庵初段」と呼ぶようになりました。
- ―― 幻庵はすごい人なのに不運で、不運なのにしぶとくて、格好いいと思いきやずっこけたところもあって、面白い人ですね。
- 寺山 それを魅力的と言うんですよ(笑)。幻庵は『囲碁妙伝』の中でこう書いています。「碁は運の芸なり。勝ち負けだけで実力を判断するのは愚かなことだ」。これは読者に向けた言葉ですが、幻庵自身を表しているようでもあります。丈和に匹敵するほどの実力を持ちながら名人になれず、勝負という意味では負けてしまったけれど、波乱万丈の人生は多くの人を惹きつけ、小説(『幻庵』百田尚樹著)にもなっています。そんな棋士は他にはいません。
(2)幻庵の棋風
- ―― 幻庵の棋風を教えてください。
- 寺山 スケールの大きい模様の碁で、力が非常に強いです。また、白番での打ち方が特徴的だと思います。
- ―― どういうことでしょうか。
- 寺山 江戸時代、一手目はほぼ右上隅小目です。幻庵は早々にその石にカカり、さらにカケていくことで上辺を盛り上げていくことが多いんです。
- ―― 自分のスタイルを持っていたんですね。丈和とライバル関係にあったとのことですが、実際に二人の実力は伯仲していたんですか?
- 寺山 そう思います。修行時代の二人はよく対局をしていて、対戦成績も少し丈和が勝ち越しているもののいい勝負。ただ、残念なことに名人碁所を巡る「争碁(あらそいご・昇段や碁所就任をめぐりどちらが強いかはっきりさせるために打つ対局)」はしていません。関係者がそれぞれ政治的な決着を目指した結果、丈和が碁所になる事になった。なので、打っていたら幻庵が勝っていたのか、それは分からないというのが正直なところです。
- ―― 古碁探訪(3)で丈和と幻庵はお互いに陰謀を企て、かなり険悪な雰囲気でしたが、実際の関係はどうだったのですか?
- 寺山 いろいろあった以上、険悪だった時期は長いと思いますよ。ただ、修行時代は共に切磋琢磨する仲間でしたし、後年は和解し、丈和の息子が井上家の養子に入り家督を継いだりもしています。丈和は「幻庵は名人の器だ。ただ惜しいかな時代が悪かった」という言葉も残していて、お互いに思うところはあっても認め合う関係だったようです。
(3)幻庵の名局
- ―― 幻庵の代表局を教えてください。
- 寺山 丈和の弟子、秀和との一戦を挙げたいと思います。この碁は丈和が引退し、再び碁所が空位になったタイミングで幻庵が挑んだ争碁の第2局です。この時幻庵は45歳。いわば、悲願に向けた最後の挑戦でした。
- ―― それは力が入っていたでしょうね。
- 寺山 相手は丈和の弟子、秀和。この秀和は非常に優秀で、評価の高い棋士です。丈和が亡くなった後、秀策の師となり、共に一時代を築きました。本局が打たれた時、秀和はまだ23歳ですが、すでに七段で実力はトップクラスです。
- ―― 強敵ですね。
- 寺山 名人は天下に一人。そして、名人たるもの七段には白番でこなさなければならないと考えられていました。そのため、この争碁は秀和の黒番と定められました。幻庵にとってはかなり厳しい手合割りです。
- ―― そんな中で打たれた一局なんですね。
- 寺山 本局は第2局目。第1局は秀和の黒番4目勝ち。ここで流れを押し戻せば碁所に望みをつなげる大事な一局でした。そして幻庵の打ち回しは本当に素晴らしかった。持ち味を存分に発揮し、スケールの大きい戦いを仕掛け、あと一歩で秀和に勝ちそうになりました。
- ―― 勝ちそうになった、ということは負けてしまったんですか?
- 寺山 はい。残念ながら負けてしまいました。完璧な打ち回しで秀和を押していた幻庵ですが、それでも目算してみると僅かに1目足りなかった。それで落胆し、ヨセで損を重ね、最後は6目負けになったと伝えられています。
- ―― 渾身の一局でも秀和の黒番を破れなかったんですね。
- 寺山 それほど秀和が強かったということでしょう。この後、もう二局打ちますがその碁も破れ、4連敗したことで幻庵は碁所を諦めざるを得なくなりました。
- ―― 長かった名人碁所への挑戦がついに終わったんですね。
- 寺山 そうですね。けれど、この挑戦が終わったことで、むしろ幻庵は生き生きと輝きだします。秀策と対局をしたのも、清国行きを決行したのも、妾と駆け落ちした弟子に碁盤を贈ったのも、すべて秀和との争碁の後の話です。
- ―― みんなが好きな幻庵は碁所を諦めた後に生まれたんですね。もしも幻庵が丈和に勝って名人碁所になっていたら魅力的な幻庵はいなかったのかもしれないと思うと、なんだか感慨深いです。
記・品田渓
天保13年(1842年)
黒・本因坊秀和 白・井上幻庵因碩 (1―70、以下略、結果は黒6目勝ち)

白2、4や、16から18と上辺を盛り上げるのは幻庵らしい打ち方。

