血湧き肉躍るギャンブル。それはあまりにも刺激が強く人々を夢中にさせるためか、昔から半ば公然と認められつつ、違法性を帯びたグレーでアウトローな存在でした。そのタブーな雰囲気が妖しい魅力となり、私たちを惹きつけるとも言えます。
江戸時代にもギャンブルは隆盛を極めていました。幕府はその時々で、一応は博打を禁じていたようですが、市井の人々はほとんど気にせず、実に多くのものが賭けの対象になったと言います。碁も例外ではありません。2024年に公開された時代劇映画『碁盤斬り』(監督・白石和彌、主演・草彅剛)でも中心に据えられていたのは「賭け碁」でした。
今回、寺山怜六段に案内していただくのは「賭碁師」です。碁の実力をお金に変えるという点では普通の棋士と変わりないけれど、そのやり方は実に危険でスリリング。賭け碁に興じた人は多くても、勝ち続けられる人はごくわずかです。裏社会では記録も残らず、ほとんどが静かに消えていく運命にありました。しかしそんな中でも、実力が抜きん出ていたために奇跡的に今日まで名前が残っている賭碁師を2人紹介します。1人は賭け碁で億を稼いだ四宮米蔵、もう1人は賭け碁で死にかけた水谷縫治(縫次とも表記される)。対照的な2人から賭け碁の深淵を覗き見ます。
江戸時代にもギャンブルは隆盛を極めていました。幕府はその時々で、一応は博打を禁じていたようですが、市井の人々はほとんど気にせず、実に多くのものが賭けの対象になったと言います。碁も例外ではありません。2024年に公開された時代劇映画『碁盤斬り』(監督・白石和彌、主演・草彅剛)でも中心に据えられていたのは「賭け碁」でした。
今回、寺山怜六段に案内していただくのは「賭碁師」です。碁の実力をお金に変えるという点では普通の棋士と変わりないけれど、そのやり方は実に危険でスリリング。賭け碁に興じた人は多くても、勝ち続けられる人はごくわずかです。裏社会では記録も残らず、ほとんどが静かに消えていく運命にありました。しかしそんな中でも、実力が抜きん出ていたために奇跡的に今日まで名前が残っている賭碁師を2人紹介します。1人は賭け碁で億を稼いだ四宮米蔵、もう1人は賭け碁で死にかけた水谷縫治(縫次とも表記される)。対照的な2人から賭け碁の深淵を覗き見ます。
(1)四宮米蔵と水谷縫治はどんな人物だったのか
- ―― 今回のテーマは「賭碁師」ということで楽しみにしていました。端的にうかがいますが、賭け碁は儲かったのでしょうか。
- 寺山 それは人によるとしかいいようがありませんが、伝説的な賭碁師、四宮米蔵が生涯で稼いだ額は3000両(3億円以上)とも伝えられています。
- ―― それは・・・夢がありますね。家元に弟子入りして棋士になるより、よほど稼げたんじゃないですか。
- 寺山 もし3000両手に入るなら、そうですね。ただし、これは米蔵だからできた芸当です。長い歴史の中でも賭碁師としてここまで堂々と名前を知られた人は他にいません。
- ―― 特別だったんですね。
- 寺山 米蔵は淡路島に生まれ、独学で碁を学び強くなりました。そして賭け碁で勝ちまくっているうちに、いつしか「淡路島に米蔵というとんでもなく強い人がいる」と全国に知られるようになります。
- ―― ネットも電話もない時代に淡路島から全国に名を轟かせるのはすごいですね。
- 寺山 話題が話題を呼び、全国各地の腕自慢と対決していくのですが、向かう所敵なしでした。米蔵は自信を深め「俺が二子置けば名人だろうが誰だろうが負けるはずがない」と豪語するようになります。
- ―― なかなかのビッグマウスですね。
- 寺山 本当に自信があったんだと思いますよ。さて、米蔵が50歳を過ぎる頃、淡路島の領主が江戸に出るのに伴って、本因坊家に対局を願い出ることになりました。噂は本因坊家にも当然届いていたので、当時の当主、元丈は「厄介なことになった」と思ったはずです。
- ―― もし本因坊家の棋士、ましてや当主が、淡路島の名物おじさんごときに負けたらメンツ丸潰れですものね。
- 寺山 しかも米蔵は淡路島領主のお供として半ば公式に来ているので、門前払いするわけにもいかなかった。しかしここで元丈にとって幸運だったのは、跡目に丈和がいたということでした。全盛期を迎えていた丈和はとても強かった。米蔵は二子置いて挑み、4勝6敗1ジゴと負け越したんです。
- ―― 「二子置いたら誰にも負けない」と豪語していた米蔵からしたら、不満な結果でしょうか。
- 寺山 挑戦は領主の支援あってのものですから、スポンサーに顔向けできないという意味でもショックは大きかったと思います。それでも、米蔵は丈和に負けた悔しさよりも感動の方が大きかったと見え、「あなたは本物の名人だ」と丈和を称え、なんと本因坊家に弟子入りしてしまいます。本因坊家としても、身内になれば実力を認める事ができるというもの。米蔵は十一番碁の直後には三段の免状を断られたものの、弟子入り後に四段を認められ、晩年は本因坊門下の棋士として活躍するようになりました。
- ―― 感動して弟子入りするなんて、真っ直ぐな人だったんですね。
- 寺山 そうですね。とはいえ、丈和に対しては敬意を持って接していた米蔵も、他家のことは完全に舐めていて、相手が高段であってもかなり態度は悪かったようです。しかも打てば強いからなおタチが悪い。特に林家当主の林元美などは米蔵が大嫌いだったと伝えられています。
- ―― なるほど(笑)。叩き上げの米蔵からしてみたら、上品な棋士が甘く見えてしまうのかもしれませんね。なんとなく分かる気がします。
- 寺山 次に紹介する水谷縫治は江戸末期に今の愛媛県で生まれ、明治期に活躍した棋士です。まずすごいのは、彼は13歳の時に里帰り中の本因坊秀策と打っていることです。この時、四子と三子で対局して完勝し、その内容があまりにも素晴らしかったので、秀策から棋士になるように強く勧められます。縫治は相当嬉しかったでしょう。けれど、希望は叶えられませんでした。
- ―― なぜですか。
- 寺山 縫治の父親は医者で、息子にも医学の道に進んで欲しいと思っていたからです。棋士を勧める秀策に、父は「この子は体が弱く、一人で江戸に行かせるのは心配です。それにこの子には私の後を継いでもらうつもりです」と断りを入れ、縫治はそのまま愛媛に残ることになりました。
- ―― なるほど、昔は家を継がなければいけないという圧力が高そうですものね。よくあることとはいえ切ないです。
- 寺山 ところが、結局縫治は医者にはなりませんでした。その後ぷっつりと姿を消し、再び現れたのが30歳の頃。方円社を立ち上げた村瀬秀甫(本因坊秀甫)に請われて上京し、方円社の棋士になったのです。晴れて棋士になった縫治は順調に勝ち進み、秀甫に次ぐ実力者として名を馳せますが、38歳の時に肺の病で亡くなりました。とまあ、これが表に出ている縫治の略歴です。
- ―― 表・・・ということは裏があるんですね?
- 寺山 縫治が亡くなり、死装束に着替えさせる時、周りにいた人は縫治があまりにも刀傷だらけなのに驚いたそうです。どうやら、棋士にも医者にもならずに姿を消していた間、縫治は賭け碁で稼いでおり、その時に恨みを買って斬りつけられたようだと分かりました。
- ―― 米蔵が賭け碁で億を稼いで幸せそうだったのに対して、縫治は斬りつけられて生死を彷徨うだなんて、同じ賭碁師でも随分と境遇が違いますね。
- 寺山 ここからは私の推測なので、もっと詳しい方にぜひお聞きしてみたい所ですが、賭け碁の違法性はその時々によって違ったのが影響しているのではないかと思います。米蔵が堂々としていられたのは時の幕府が賭け碁を取り締まらなかったから。一方の縫治は明治期の人です。縫治が賭け碁で稼いでいた時期にはまだ賭博罪が施行されていなかったようですが、それでも米蔵の頃と比べると「いけないこと」として認識されていたのかもしれません。そうなるとよりアンダーグラウンドにならざるを得ず、危ない目に遭う可能性も高かったのではないでしょうか。
- ―― なるほど、確かに江戸時代でも幕府の体制次第で町人文化への締め付けが厳しくなったり、緩くなったりしていますし、米蔵は時代に恵まれたのかもしれませんね。
- 寺山 もう一つ要因として考えられるのは人柄です。賭け碁では賭ける額とハンデ取りが非常に大切だろうと思われます。誰だって大負けしたらインチキだと言いたくなるからです。その点、米蔵は確かに旦那衆をカモにして大金を稼ぎましたが、きちんと取っていい相手から取っていい額を取る名人だったのかもしれません。丈和とのエピソードからもどこか憎めないところがありそうですし、加減が絶妙だったのかな、などと想像します。一方で縫治はなかなか尖った打ち手だった可能性が高い。対局時に相手の顔をのぞき込んだり、石を打つ度に相手をバカにしたような冷笑を浮かべたりする、とも伝えられており、対局態度は相当悪かったようです。
- ―― それは嫌ですね。負けてお金まで取られるのに、その上バカにされたように笑われたら斬りつけてしまう人がいるのも頷けます。
- 寺山 何にせよ、対局態度が悪くていいことは一つもありません。特にそれを賭け碁でやると命取りになるかもしれない、ということですね。
(2)四宮米蔵と水谷縫治の棋風
- ―― 2人の棋風を教えてください。
- 寺山 米蔵の碁に一番近いと思うのは数年前の酒井佑規七段です。ヨミの力が異常に強く、独特の間合いと感性があります。ほとんど実戦だけで強くなったために知識が不足している感は否めませんが、それでこの実力は奇跡的です。丈和には二子で負けた米蔵ですが、七段に先番で互角に戦うくらいの実力はありました。そこそこの棋士では互先でも太刀打ちできなかったでしょう。
- ―― 縫治はいかがですか。
- 寺山 縫治も独学で強くなった人ですが、米蔵とは違って、ヨミよりセンスが光るタイプの打ち手です。現代の棋士で似た棋風の人をあげたいところですが、縫治の碁は独特でちょっと思いつきません。地の荒らし方がとても上手いのですが、そのやり方が独創的で他の人には真似できないと言いますか。とにかく、とても魅力的な棋風なので、ぜひ並べてみていただきたいですね。
(3)四宮米蔵と水谷縫治の代表局
- ―― 代表局を教えてください。
- 寺山 まずは米蔵から。もちろん丈和との二子局から選びました(第1図)。
- ―― 見るからに力と力でねじり合っていますね。
- 寺山 少し解説しますと、白57時点では黒が苦しいかと思われましたが黒60からの逆襲で110まで白の大石を逆に召し取ってしまいます。この時点ではさすがに黒が良いのですが、丈和も白113からの攻めが凄まじく追い込んでいって最後はジゴ。すごい碁です。
- ―― 丈和もメンツをかけて必死に勝とうとしているのですね。
- 寺山 丈和は後に「この頃が私の全盛期だった」と振り返っています。丈和は史上最強を争う名人中の名人です。その丈和の全盛期に二子で善戦した米蔵はとても立派ですし、米蔵に二子で勝ち越した丈和も素晴らしいと思います。
- ―― 縫治はいかがでしょうか。
- 寺山 迷いましたが、秀甫との対局から選びました(第2図)。あまり知られていない一局かもしれませんが、縫治らしさが出た名局だと思います。まず目を引くのは黒23、27の独創的なサバキです。そして黒45、47も渋くてたまりません。相手の秀甫は明治期の第一人者。柔軟な棋風で、たとえば白14、16の構想などはとても古碁とは思えません。見ごたえのある一局だと思います。
- ―― 縫治は秀甫に次ぐ実力者とのことでしたね。
- 寺山 江戸時代が終わっても、この頃はまだ打ち込み制でした。誰がどのくらい強いのかがはっきりと見えてしまう。秀甫は多くの棋士と対戦しましたが、ことごとく先以下に打ち込んでいて、誰がどう見てもこの時代の第一人者でした。その中で唯一、縫治だけは先以上の手合割、先相先(上手が3局に1局黒を持つ)、に進んだと伝えられています。
【第1図】
文政4年(1821年)1月25日 二子・四宮米蔵 白・本因坊丈和
1-125手まで、以下略 ジゴ

白93(72)、白105(82)、黒106(102)、黒108(96)
【第2図】
明治16年(1883年)10月11日 先・水谷縫治 白・村瀬秀甫
1-53手まで、以下略 黒中押し勝ち

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