碁の神様にいざなわれて(2部)~牛栄子扇興杯と呉清源九段の交流【コラム:品田渓】


  • * 呉清源九段の晩年を助手として支えた牛力力(にゅう・りーりー)さんの娘、牛栄子四段第7回扇興杯女流囲碁最強戦で初優勝を果たした。牛家のファミリーヒストリーから浮かび上がってくる呉九段の姿とは。1部では力力(りーりー)さんがいかにして呉九段の助手になったかを追った。2部では幼い栄子と呉九段の交流を描く。

 栄子の誕生後も力力さんは変わらず仕事を続けた。そして預け先が見つからない時は呉九段の自宅に連れて行った。「先生も先生の奥様も栄子のことをとても可愛がってくださいました」。力力さんと呉九段が仕事をしている間、栄子は書斎の片隅でじっとその様子を見ていて、仕事が終わると碁石の片付けに参加した。
 取材は時に数時間に及ぶこともあったが4、5歳の栄子は騒ぐことなく静かにしていたという。栄子はこの時のことを覚えていて「呉先生は楽しそうに碁の話をしてらして、内容は分からなかったですが不思議とずっと見ていられたんです」と振り返る。いい手を見つけると少年のように喜び、楽しそうに探求する呉九段の姿は幼心に刻まれた。
 栄子は自然と碁に興味を持つようになっていた。そこで5歳の時、力力さんは9路盤の対局ソフトを買い与える。当時の囲碁ソフトは現在のように強くはなくアマチュアレベルのものだったが、ルールを覚えたばかりの5歳にとっては強すぎた。当然しばらくは勝てないだろうと力力さんは思っていたが、買って間もなく「お母さん、勝ったよ」と報告してきて驚いた。「どうやって勝ったの?」と聞くと「お母さんと同じようにやったから勝った」という。栄子は母が試しにソフトと対戦するのをじっと見て暗記し、まったく同じように打っていたのだ。物心ついた頃から呉九段が盤に石を並べるのを見てきた栄子は「見る」ことへの集中力が並はずれて高かった。
 小学3年生の時、少年少女囲碁大会の千葉県代表に選ばれ、それを機に本格的に碁に打ち込むようになる。この少年少女の代表入りを決めた碁は呉九段の前で並べ、講評を加えてもらった。それは栄子にとって美しく神聖でかけがえのない思い出だ。

 日本と中国、両国で伝説的な存在である呉九段との関係は、盤外でも普通では得られないような体験を与えてくれた。特に田壮壮監督による呉九段の伝記映画『呉清源~極みの棋譜~』(2006年公開)の撮影現場で打ち方指導をしたことは力力さんにとって忘れられない思い出だ。撮影現場にはまだ幼い栄子も一緒についてきた。そして、いつものように近くで撮影の様子をじっと見ていた。
 撮影は中国人も日本人も入りまじって行われた。当然、言葉が通じずにもどかしい思いをする場面もしばしばだ。ある時、誰かが「栄子ちゃん、訳してよ」と言った。言われるがままに訳して伝えるとそのうちいろいろな人が頼みだし、いつの間にか栄子は小さな通訳のようになったという。またある時は碁のルールを覚えたばかりの俳優の練習相手に誘われた。「気さくな方ばかりで、呉先生役の張震さんも木谷實九段役の仁科貴さんもとても優しくて栄子とよく遊んでくださいました。『栄子ちゃんは強いよ。呉先生にも木谷先生にも勝っちゃったよ』と言われたり...。面白かったですね」。
 成長し、棋士になった栄子は今も時々、名通訳ぶりをみせているそうだ。「国際戦で中国に遠征へ行った時、一緒に行った子が現地でなくし物をして、それを栄子がいろいろなところに問い合わせて見つけたという話を本人から聞いたことがあります。『自分の中国語が役に立てて嬉しい』と話していました」。母、力力さんについて栄子はあちらこちらを旅し、さまざまな人と交流した。呉九段を通じた人との出会い。それは幼い日に見た呉九段の純粋な探究心と共に、現在の栄子に大きな影響を与えた原体験に違いない。

記・品田渓
* 「碁の神様にいざなわれて(3部)~呉清源九段の死と新たな時代の幕開け」に続く


栄子5歳。呉九段と呉九段の妻、和子さんと。


田壮壮監督による伝記映画『呉清源~極みの棋譜』の撮影現場。田監督の膝の上でメガフォンを手に通訳をする栄子。右は王昱カメラマン。


『呉清源~極みの棋譜』の撮影現場で呉九段役の張震さん、木谷實九段役の仁科貴さんと対局をする栄子。