囲碁の歴史

囲碁の起源 ( 紀元前2 千年~前千年頃 )

囲碁の起源

 囲碁のはじまりは、四千年ぐらい前の中国と言われています。
 ただ、中国ではなくインドやチベット発祥の異説もあり、はっきりしたことはわかっていません。
 当初囲碁は、古代中国の皇帝(=尭帝・舜帝)が、囲碁を創って子どものしつけのために教えたという伝説や、碁盤は宇宙、碁石は星のかわりで、暦(こよみ=カレンダー)、占いに使ったという話があります。
 中国の古い書物(=論語・孟子など)には既に囲碁についてのことが書かれており、また紀元前770~前221年ころ春秋・戦国時代には、囲碁は戦略、政治、人生のシミュレーションゲームとして広まったようです。

最古の棋書・故事

 現存する最古の棋書(囲碁に関する本)は、「忘憂清楽(ぼうゆうせいらく)集」 でその中に呉の孫策と呂範が打ったとされる囲碁の記録(=棋譜)があります。
 山海経、坐隠談叢、博物誌、史記、論語・孟子など古い文献には囲碁のことや故事などが書かれています。
 三国志演義(三国時代の重要史実はそのままにストーリーには脚色が入った歴史小説)には、戦いで怪我をした関羽は麻酔がわりに、馬良と囲碁をしながら華陀という医者に毒矢の傷の手術をうけたという話もあります。囲碁がそれだけ人を夢中にさせるという逸話の一つですが、関羽のイメージとピッタリで事実と思いたくなるほどの話です。

琴棋書画

 古くから中国では、君子のたしなみとして「琴棋書画」(きんきしょが)を子どもの頃から習わせたのです。
 琴(きん)は音楽、棋(き)は囲碁、書(しょ)は書道、画(が)は絵のことで、立派な王様になるには囲碁の勉強もあったのですね。
 日本でも室町時代以降、掛け軸や屏風絵(びょうぶえ)、襖絵(ふすまえ)などの題材として数多く描かれています。

日本への伝来 ( 飛鳥時代・奈良時代~平安時代 )

日本への伝来

 囲碁が日本に渡ってきたのは、いつごろか?実はこれもはっきりとはわかっていません。
 奈良時代(710-794)に吉備真備(きびのまきび)が遣唐使(けんとうし)として唐から持ち帰ったという話がありますが、既に636年隋書・倭国伝には日本人が囲碁を好むことや、701年大宝律令・僧尼令などにも囲碁のことが記されていますので、日本への伝来はそれ以前からということになります。

「『隋書』倭国伝」
 飛鳥時代(592-710)の607年、推古(すいこ)天皇の時に遣隋使(けんずいし)の派遣で、聖徳太子は「日の出るところの天子から日が沈むところの天子へ」と書いた書簡を持たせました。
 その書簡を見た隋の皇帝は怒りましたが、翌年、文林郎(官職名)・裴世清(ぶんりんろう はいせいせい)を隋の使いとして日本に送っています。
 裴世清(はいせいせい)が、608年日本に来ていろいろなことを調べ体験したことを記録したのが「隋書・倭国伝」です。
 「倭人(日本人)は仏法を敬い、(-中略-)、囲碁、すごろく、バクチの戯を好む」と記されています。

聖徳太子
( しょうとくたいし )

「大宝律令・僧尼令」
 701年、大宝律令(たいほうりつりょう)が定められました。
 これは隋や唐のような強大な国づくりをめざし、政治、学校、土地、身分などを取り決めた法律ですが、その中の僧尼令(そうにれい)にスゴロクやバクチは禁止するが、碁琴は禁止しないという法律が決められました。碁琴の碁は、もちろん囲碁のことです。

日本最古の碁盤

 奈良の東大寺大仏殿の北西にある正倉院(しょうそういん)には、聖武天皇(701-756)の遺品や当時の記録・品物が多くおさめられていますが、中には碁盤や碁石も保存されています。
 碁盤は3面、碁石は4種類が保存されていています。
 碁盤は3面のうち、「木画紫檀棊局」(もくがしたんのききょく)が最も有名です。

「木画紫檀棊局」
( もくがしたんのききょく )
( 正倉院宝物 )

文献・文学との関わり

 日本で最初に「碁」の文字が用いられたとされる「古事記」や「風土記」「懐風藻」には碁に関する記事が記されています。
 平安時代(794-1192)の文学として有名な紀貫之(きのつらゆき)らがまとめた「古今和歌集(こきんわかしゅう)」、紫式部(むらさきしきぶ)の「源氏物語(げんじものがたり)」、清少納言(せいしょうなごん)の随筆「枕草子(まくらのそうし)」などにも囲碁が登場します。
 これらの文献・文学作品の様子から、当時宮廷を中心にした貴族社会で囲碁を非常に好んだことがわかります。
 平安時代、醍醐天皇は囲碁が好きで、当時の一番の名手で碁聖と言われた寛蓮上人(かんれんしょうにん)と、金の枕を賭けた話が伝えられています。
 その後囲碁は貴族、僧侶や、宮廷の女性たちだけでなく、さらには、武士たちにも広まっていきました。
 清原真衡(きよはらのさねひら)が囲碁にあまりにも夢中になりすぎて、あいさつにきた一族の吉彦秀武(きみこのひでたけ)を無視したため怒って帰ったことが戦争の原因となったこともありました。(=後三年の役)

源氏物語絵巻
(げんじものがたりえまき)

囲碁の広がり ( 鎌倉・室町時代 )

囲碁の広がり

 鎌倉時代(1192-1333)・室町時代(1338-1573)は、公家文化から武家文化へ、さらに仏教などあわさった文化が地方へ広まっていった時代です。
 宮廷、貴族に広まった囲碁は、武士、僧侶などの知識階級へ、またしだいに農業、商業の人々の間にも広まっていきます。
 1199年、玄尊(げんそん)が囲碁の戦術や礼儀作法、取り決めなどを書いた日本最古の棋書ともいわれる「囲碁式(いごしき)」を定めました。(=群書類従)
 1253年、僧侶の日蓮と弟子の吉祥丸(=日朗)が打った碁の記録(=棋譜)があります。現存する最古の棋譜といわれていますが、本物かどうか分かっていません。
 ただ、自筆の教本にも碁の記事がみえるところから、日蓮が囲碁を打ったことは間違いないようです。
 また、同じ年に僧侶同士(=法探坊と刑部坊)の打った碁でルール問題(=両コウ問題)がおきました。

 当時の文学として歴史書「吾妻鏡(あずまかがみ)」「太平記(たいへいき)」、 また吉田兼好(よしだけんこう)の随筆「徒然草(つれづれぐさ)」などにも囲碁に関わる記述があります。

徒然草(第193段)

 拙き人の、碁打つ事ばかりにさとく、巧みなるは、賢き人の、この芸におろかなるを見て、己れが智に及ばずと定めて万の道の匠、我が道を人の知らざるを見て、己れすぐれたりと思はん事、大きなる誤りなるべし。
(知力の乏しい人が自分が碁を巧みに打てるからといって、碁の技芸には劣っている賢い人を見て、こいつは自分よりも知力が劣っていると決め付ける。それぞれの道に通じた専門家(職人)が、他人が自分の専門分野のことを知らないのを見て、自分のほうが優れていると思い込むのは大きな誤りである。)

吉田兼好
( よしだけんこう )

 1530年ころ、中国明の林応竜によって「適情録」20巻が編纂されました。
 その中に虚中(きょちゅう)という日本の僧侶がつくった碁の図が384あまり入っています。
 虚中という人物は誰なのかわかっていませんが、日本の碁は、中国と同レベルまでに達していたものと思われます