
日本棋院は、我が国の国技であり、伝統文化である囲碁・棋道の発展と文化の向上・継承を使命とする公益財団法人です。創設以来、伝統を尊重しつつ時代に即した普及活動を展開し、国内外に囲碁の魅力を広めてまいりました。棋士の健全な育成と競技制度の整備にも注力し、青少年への教育や国際交流を通じて、囲碁文化の継承と発展を図っております。
「幽玄」の間とは
「幽玄」の間は、日本棋院本院に設けられた対局室であり、多くの名勝負が繰り広げられてきた囲碁界の聖地です。室内には、川端康成氏が日本棋院落成を記念して揮ごうした「深奥幽玄」の掛け軸が掲げられ、その書は囲碁の奥深さと芸術性を象徴しています。静謐な空間と格調高い設えの中で、歴史に残る対局が数多く行われ、囲碁文化の粋が息づく場所として、多くの棋士と愛好者に敬愛されています。

囲碁殿堂資料館のVR化は、囲碁文化の継承と発信を新たな次元で実現する試みです。インターネットを経由して国内外の誰もが資料館を訪れ、貴重な史料や先人の足跡に触れることが可能となりました。VR空間を通じて深淵なる世界を体感してみてください。
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レリーフ
本因坊秀策肖像ほんいんぼうしゅうさくしょうぞう
平成16(2004)年
囲碁の歴史文化発展に貢献した者を顕彰する「囲碁殿堂」表彰は平成16(2004)年に始まり第1回は本因坊秀策1829(文政12)年~1862(文久2)年らが選ばれた。秀策は御城碁19連勝など数々の記録を残し、近代布石の基礎を築いたことが評価された。
碁盤
雪の盤ゆきのばん
江戸時代
徳川幕府秘蔵の名盤。一本の種から雪・月・花の三面が作られ、将軍の新年打初めに使用されたという。月、花の行方は不明。一つは海外に渡っているとも言われている。
碁盤
宇宙対局碁盤うちゅうたいきょくごばん
平成8(1996)年
スペースシャトル「エンデバー」で、宇宙飛行士の若田光一さんとダニエル・バリーさんの囲碁の対局が行われたがその時に使われた碁盤。無重力なので、石の代わりにシールを貼るものだった。
碁笥・石
菊花紋蒔絵碁盤きくかもんまきえごばん
江戸後期
蒔絵とは漆器に漆で文様を描き、そこに金粉や銀粉を付着させる工芸技法。この碁盤の側面には皇室の象徴である菊花紋が施され、同意匠の碁笥が付属する。
孝明天皇が愛用したと伝えられ、芦田均元総理、川島正次郎元自民党副総裁を経て山村新次郎元農水大臣に渡った
掛軸
川端康成筆掛軸「深奥幽玄」かわばたやすなりふでかけじく「しんのうゆうげん」
昭和46(1971)年
ノーベル賞作家、川端康成(明治32(1899)年-昭和47(1972)年)は碁好きであり、呉清源ら棋士とも親交を深めていた。本因坊秀哉名人の引退碁の観戦記を執筆し、それを基に小説「名人」を発表する。昭和46年東京・市ヶ谷に日本棋院新会館が開館したことを祝して贈られた。この軸が会館5階の特別対局室に飾られたことからその部屋の名前が「幽玄の間」となった。
掛軸
伝・円山応震 肆聖囲棋図でん・まるやまおうしん しせいいきず
江戸後期
円山応震(寛政2(1790)年-天保9(1838)年)は江戸時代後期の画家。円山応挙の孫。人物、山水、花鳥を得意とした。
新聞
名人引退碁観戦記めいじんいんたいごかんせんき
昭和13(1938)年
名人引退碁は本因坊秀哉と木谷実による昭和13年6月から12月の約半年間にわたって打ち継がれた対局。「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」に川端康成の観戦記と呉清源の解説と棋譜が掲載された。川端は後に小説として『名人』を執筆した。
袈裟
本因坊家の袈裟ほんいんぼうけのけさ
明治時代
歴代の本因坊家当主に伝えられた袈裟は本因坊秀哉名人を最後に伝承が途絶えた。この袈裟は福田正義八段、村島誼紀九段へと受け継がれた。明治14年深川の大火で本因坊家の什器のほとんどが焼失したためその後作られたものであろう。
免状
本因坊丈和署名免状ほんいんぼうじょうわしょめいめんじょう
天保年間
江戸時代は「名人碁所」が免状の発行権を保持していた。江戸を通じてその地位に就いたのは6人しかいないが、その中の一人、本因坊丈和(天明7(1787)年-弘化4(1847)年の署名入りで発行されたものである。現代の免状と同じ大高檀紙に書かれている。
書籍
囲碁大合戦いごだいかっせん
江戸後期
幕末に出版された、白石・黒石を擬人化し、囲碁用語や戦いの形を面白く表現した絵本。
胸像
大倉喜七郎ブロンズ像おおくらきしちろうぶろんずぞう
昭和38(1963)年
彫刻家、朝倉文夫(明治16(1883)年-昭和39(1964)年)の最晩年に制作された像。日本棋院創立に大きな功績があった大倉が昭和38年亡くなったのを悼み制作された。
胸像
本因坊秀哉ブロンズ像ほんいんぼうしゅうさいぶろんずぞう
昭和9(1934)年
彫刻家、朝倉文夫(明治16(1883)年-昭和39(1964)年)の最晩年に制作された像。右肩が下がり、視線は下を向いているのは実際に対局している姿を像にしたためである。
浮世絵
御代春陽暦曽我みよのはるよろこびそが
明治6(1873)年
幕末から明治にかけての浮世絵師豊原国周(天保6(1835)年-明治33(1900)年)作の大判錦絵。吉備真備が唐に留学したときに大臣玄東と対局したという伝説を元に、脚色され明治6年に上演された歌舞伎に取材。吉備真備は長らく囲碁を日本に伝えた人だと伝承されてきた。 日本棋院 蔵
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公益財団法人日本棋院